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ブライアン・フェイガン『古代文明と気候大変動――人類の運命を変えた二万年史』




古代文明と気候大変動―人類の運命を変えた二万年史 (河出文庫)
ブライアン フェイガン
河出書房新社
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 考古学などに対して特段興味があったわけではないのだが、河出文庫に収録されている科学史の本には面白い本が多いので読んでみることにした。副題に「人類の運命を変えた二万年史」とあるように、人類誕生(本書で最初に主役になる人類はクロマニョン人)から西暦1200年ぐらいまでの歴史と気候の関係を壮大な密度と濃い情報量で駆け抜けるとても面白い本で、これまで私には「気候が歴史を変えてしまう」というこの本の歴史観の根幹を成している観点を持たなかったので一層興味深く読めた。経済でも、思想でも、英雄でもないものが歴史を変える、というよりも、気候が経済や思想や英雄を変えてしまう、という記述は新鮮に感じられた。





 たとえば、キリスト生誕以前から西暦900年まで、10世紀以上シャーマン兼支配者である君主の元に反映したマヤ文明が崩壊した原因については「3度におよぶ大干ばつ」があげられている――干ばつはまず、農耕に影響を及ぼし、経済および民のライフラインを破壊する。それは同時に王国の民が抱いていた君主に対する信頼にも傷をつける。神(超自然的な存在)と民との間を仲介し、民に豊かさを与えること、それが君主が君主である証であったはずなのに、それが果たされないのであれば、カリスマが失墜するのは当然であろう。以上のように気候は、経済や思想や英雄を変えてしまうのだ。そして、同じような事例は、マヤ文明に限った話ではなく、エジプト文明やティグリス・ユーフラテス文明でも起こったようである。





 現代にいきる我々は、そこまで気候が生活に影響を与える実感というものを感じないでいる。それは一重に科学技術の発展のおかげであり、気候の変動に対する対処知識が人類史に蓄積された結果でもある。1万年以上前から気候が一千年単位で大規模に変動する期間を乗り越え(その間、人類は気候に合わせて土地を移動し続けた)、大変動以降は定住することによって対処方法を発展させ、それが現代につながっていったのだ。しかし、著者は以下のようにも書いている。



ニューオリンズは100年ごとに訪れる洪水にたいしては安全になったが、1000年、あるいは1万年に一度の規模の洪水に関しては、無事を祈るばかりである。



 なんだか不安を呼ぶような文章であるが、しかし、この観点がこの本のミソでもある。著者曰く「定住すること即ち、気候の変動に対して脆弱性をあらわすこと」なのだ。気候が変動したならば、それに合わせて住む環境を移動する――狩猟民や野生動物たちがおこなってきた、この対処方法を著者は合理的な態度として評価する(というか対処方法がなかったからそうするしかないのだが)。反対に同じ場所に定住するということは、対処方法がない状況の際に、本当に対処方法を無くしてしまうリスクを背負うことだ、と著者は主張する。そして、現代でもそのリスクをまったく失われていないのである。我々の社会が、かつてのマヤ文明のように崩壊するというリスクは、存在しないわけではない。



遠い過去を知ることは、先行きの見えない未来を予測することなのだ。長い時間の尺度で見ると、私たちがよく知っている20世紀が、地球の歴史のなかでも稀に見る気候に恵まれた1世紀だったことがわかる。



 以上は訳者あとがきからの引用だが、この言葉は非常に胸にしみ、(日本を含む)先進国におけるこの豊かさも、まるで地球の気まぐれがあってこそもたらされたものであるように思えてくる。「地軸の傾きを直すことすらできない」人類は自然と共に生きるしかない。ただ、この“教訓”がエコロジーと直結するかどうかは微妙であるが(人類が温室効果ガスを増やそうと、増やすまいと、いずれかならず気候の変動が起きるならば、使い放題でも良いじゃん、という考え方もできるだろうから)。





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