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萩尾望都『スター・レッド』




スター・レッド (小学館文庫)
萩尾 望都
小学館
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 続けて萩尾望都『スター・レッド』を。未来の人間が皆一様にタツノコプロがデザインしてそうな服を着ているのが面白いのだが、なんだかページが進むごとにまったく予想が出来ないほど話のスケールが大きくなってくる異様な作品だった。すごいな……なんか……と半ば呆れながらも、思い出したのは『伝説巨神イデオン』と『鳥人大系』(手塚治虫)。人類が異質な他者と出会うことで抗争が生まれ、さらにその構想の中に超越的な第三者(神的な存在)が現れ悲劇的な調停をおこなう、というモチーフをこれらの三作品は共有している。とくに『スター・レッド』における「アミ」という超生命体と『イデオン』における「イデ」はおどろくほどよく似ていると思う。『スター・レッド』の連載時と『イデオン』の放映開始は1年ぐらいしか違わず、70年代後半のSF脳を持つクリエーターのなかには、このような「愚かなる人類への反省のまなざし」みたいなものが共有されていたのだろうか……(たぶん偶然だと思うケドも……)。



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 登場人物が全員死亡という潔すぎる絶望的なエンディングを迎える『イデオン』*1と比べると『スター・レッド』は曲がりなりにも(どうなるかわらかにけれども)未来への希望というものが残されているため、やや救われる。このエンディングはもしかしたら『AKIRA』や『風の谷のナウシカ』にも通ずるのかもしれない。ただやはり、ここまであげられたどの作品でも「野蛮な人類の争い」が描かれているのだが。ふと思いついたのは『新世紀エヴァンゲリオン』という作品は、以上のような作品とテーマが似ているようで、抗争の構図がまったく異なっているのではないか、ということだ。NERVが戦う相手は、異質な他者ではなく、最初から神的な存在である。この転回は非常に重要であるように思われる。のだが、今のところ、どうして重要であるかが思いつかないので適当にキーボードをタイプする手を休めておこう……。




*1:この終幕というか終末は、最高に好きである





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