スキップしてメイン コンテンツに移動

キャサリン・パーク ロレイン・J・ダストン 「反−自然の概念 十六、七世紀イギリス・フランスにおける畸型の研究」

「イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読み終わったら、次は何を読んだら楽しいですか〜?」とTwitterで質問を投げたら、現在オランダに在住している研究者のアダム高橋さんが課題図書をあげてくださいました。

Wonders and the Order of Nature, 1150--1750
Lorraine J. Daston Katharine Park
Zone
売り上げランキング: 120212

『驚異と自然の秩序』という本(本書についてはこのブログ記事でも紹介されています)。で、先日この本を注文したのだけれどもなかなか届かないので、そのあいだに研究者の坂本邦暢さんからいただいた、同じ著者たちによる論文「反−自然の概念 十六、七世紀イギリス・フランスにおける畸型の研究」(書誌情報)を読みました。高橋さん、坂本さんありがとうございます。BHの星座のなかで生きてる感じがしてきました。

思想史・科学史というジャンルはざっくり言って、過去の人びとが世界をどのように捉え、そしてどのように世界を記述したかをみていくものであり、喩えるならば「過去」という別世界の設定資料集を書き起すようなものである、と個人的に考えています。ただ、設定資料集のみを作るのであれば、動きのないファンタジーで終わってしまう。歴史として過去が紡がれていき、そのファンタジーの変化が語られたときに、初めて読んでいて面白いモノになるのです。世界の記述自体が物語と化す、というか。

論文は、十六世紀から十七世紀にかけてイギリスとフランスでどのように畸型が取り扱われ、研究されてきたか、についての研究で、その扱われ方の変遷から人びとの意識はどのように変化したのか、というお話。とてもスタティックな語り口なのに超ダイナミックな内容で思わず震える作品、と言えましょうか。前述の思想史の醍醐味が短いなかで満喫できます。

西欧における畸型への関心は初期近代以前からあり、それこそアリストテレスだって畸型について書いているし、キケロだって書いているそうです。つまり畸型は昔から知識人の関心の対象にあがっていた、と著者は言います。それが十六世紀になると、畸型の誕生(人間だけではなく、家畜なども含む)が「すわ、不吉な出来事の前触れでは!?」という風に解釈されるのが目立つようになる。頭が二つくっついてたり、指が普通よりも多かったり、といった畸型はどう見ても自然に反している。だから、自然を超えたもの、つまり神がなにがしかのことをした故にそうした生き物らしきものが生まれてきたのだ、というのが当時の人の考えだったようです。

ルターとメランヒトンが出版した小冊子が論文のなかで紹介されているのですが、そこには怪物的な畸型の図版があります。ルターは予兆としての畸型という中世的な考え方からは脱却していたそうですが、彼はこうした図版をもとに腐敗したローマ・カトリック教会の崩壊を予言し、激しく攻撃をおこなった、というのが面白い。その他にも畸型の絵が入った瓦版みたいなものも民衆に人気だったそうです。「怖いものがみたい!」という人びとの欲望は、宗教改革にもエンターテイメントにも利用されてきたことが窺い知れます。

しかし、こうした畸型がなにかの予兆である、という態度は十六世紀から十七世紀にかけて徐々に変化していきます。「畸型の誕生は究極的には神に因るのは勿論だが、力点は究極因(神の意志)から近因(自然学的説明と自然の秩序)へと移って行った」のです。この時代、印刷技術はさらに発展し、市民社会の質が高まったりして、知的なことをするのがちょっとしたブームになっていたそうです。そこでこれまで予言だの見せ物だのでキャッキャッと楽しんでいた人たちの感性に変化がおきる。畸型は自然の驚異であり、秘密であって、そういうことを知ってる俺らエラい、みたいなムードができていく。それは「畸型なんかで予言ができるかっ!」という認識の成長と同時進行で進みます。

神意から自然の驚異へ、という畸型に対する認識の変化のなかで浮かび上がるのは、自然の地位向上でしょう。それ以前は、自然は常々神に従属しているものであり、神の意思によって自然の秩序が変わるから畸型が生まれるのだ、という風に考えられてきたのが、自然自体がたまにそのルールを逸脱することで生まれてくる、という風に考えられるようになった、と著者は言います。ここがこの論文のひとつの山と言って良いでしょう。

この意識変化から人びとの考え方が、我々の時代の科学的見識にひとつ近づいたことも感じられるかと思います。しかし、もう一歩近づかなければいけない。ここまで超自然から脱自然と来ましたが、畸型もまた自然の産物であり、自然がそのルールを逸脱したからではなく、自然のルールそのものに則って生まれてくるのである、というのが我々の時代の考え方です。そこにいたるまでの変化をドライヴしたものとして、この論文ではフランシス・ベーコンの怪物研究が紹介されています。ベーコンといえば帰納法の人として有名です。彼は怪物や畸型を蒐集し研究します。「逸脱を知ったものは、自然の過程をさらに正確に記述できるだろう」。ベーコンの研究にはそんな意図があったそうです。

ただ、ここでのベーコンはあくまで脱自然と自然の過渡期の人物として評価されています。彼は十七世紀初頭に亡くなり、自然が我々にとっての自然と最も接近するには十七世紀後半のフランス科学アカデミーの活躍を待たねばならない。彼らが自然の統一性に着目することによって、畸型から宗教的な連想や、驚異は薄れていくことになるのです。このムードは十八世紀になるとイギリスにも伝わり、こんな名言を生むことになります。「生きとし生けるものをなべて統治している、素晴しい統一性に比べれば、畸型はさほど驚くに値しない」。

とはいえ、多くの学問を駆動してきたのは驚異でしょう。「うお〜、何これ〜、すげ〜!」という驚きがあるからこそ、科学の進歩があったに違いない、と勝手に想像してしまうのですが、十八世紀半ばにはこうした態度が「無知と野蛮」のしるしであって、科学は「良識と教育と学問」によって進められるべきだ、というポリシーも登場しはじめたそうです。これは現代の科学者ってなんかクールなイメージあるよね、偉いし、お堅いんでしょ? というイメージにも繋がるかもしれません。論文のなかにはビザール趣味の方面にも訴えかけてくる図版がたくさんあるので楽しいですよ。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...