キャサリン・パーク ロレイン・J・ダストン 「反−自然の概念 十六、七世紀イギリス・フランスにおける畸型の研究」

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「イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読み終わったら、次は何を読んだら楽しいですか〜?」とTwitterで質問を投げたら、現在オランダに在住している研究者のアダム高橋さんが課題図書をあげてくださいました。

Wonders and the Order of Nature, 1150--1750
Lorraine J. Daston Katharine Park
Zone
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『驚異と自然の秩序』という本(本書についてはこのブログ記事でも紹介されています)。で、先日この本を注文したのだけれどもなかなか届かないので、そのあいだに研究者の坂本邦暢さんからいただいた、同じ著者たちによる論文「反−自然の概念 十六、七世紀イギリス・フランスにおける畸型の研究」(書誌情報)を読みました。高橋さん、坂本さんありがとうございます。BHの星座のなかで生きてる感じがしてきました。

思想史・科学史というジャンルはざっくり言って、過去の人びとが世界をどのように捉え、そしてどのように世界を記述したかをみていくものであり、喩えるならば「過去」という別世界の設定資料集を書き起すようなものである、と個人的に考えています。ただ、設定資料集のみを作るのであれば、動きのないファンタジーで終わってしまう。歴史として過去が紡がれていき、そのファンタジーの変化が語られたときに、初めて読んでいて面白いモノになるのです。世界の記述自体が物語と化す、というか。

論文は、十六世紀から十七世紀にかけてイギリスとフランスでどのように畸型が取り扱われ、研究されてきたか、についての研究で、その扱われ方の変遷から人びとの意識はどのように変化したのか、というお話。とてもスタティックな語り口なのに超ダイナミックな内容で思わず震える作品、と言えましょうか。前述の思想史の醍醐味が短いなかで満喫できます。

西欧における畸型への関心は初期近代以前からあり、それこそアリストテレスだって畸型について書いているし、キケロだって書いているそうです。つまり畸型は昔から知識人の関心の対象にあがっていた、と著者は言います。それが十六世紀になると、畸型の誕生(人間だけではなく、家畜なども含む)が「すわ、不吉な出来事の前触れでは!?」という風に解釈されるのが目立つようになる。頭が二つくっついてたり、指が普通よりも多かったり、といった畸型はどう見ても自然に反している。だから、自然を超えたもの、つまり神がなにがしかのことをした故にそうした生き物らしきものが生まれてきたのだ、というのが当時の人の考えだったようです。

ルターとメランヒトンが出版した小冊子が論文のなかで紹介されているのですが、そこには怪物的な畸型の図版があります。ルターは予兆としての畸型という中世的な考え方からは脱却していたそうですが、彼はこうした図版をもとに腐敗したローマ・カトリック教会の崩壊を予言し、激しく攻撃をおこなった、というのが面白い。その他にも畸型の絵が入った瓦版みたいなものも民衆に人気だったそうです。「怖いものがみたい!」という人びとの欲望は、宗教改革にもエンターテイメントにも利用されてきたことが窺い知れます。

しかし、こうした畸型がなにかの予兆である、という態度は十六世紀から十七世紀にかけて徐々に変化していきます。「畸型の誕生は究極的には神に因るのは勿論だが、力点は究極因(神の意志)から近因(自然学的説明と自然の秩序)へと移って行った」のです。この時代、印刷技術はさらに発展し、市民社会の質が高まったりして、知的なことをするのがちょっとしたブームになっていたそうです。そこでこれまで予言だの見せ物だのでキャッキャッと楽しんでいた人たちの感性に変化がおきる。畸型は自然の驚異であり、秘密であって、そういうことを知ってる俺らエラい、みたいなムードができていく。それは「畸型なんかで予言ができるかっ!」という認識の成長と同時進行で進みます。

神意から自然の驚異へ、という畸型に対する認識の変化のなかで浮かび上がるのは、自然の地位向上でしょう。それ以前は、自然は常々神に従属しているものであり、神の意思によって自然の秩序が変わるから畸型が生まれるのだ、という風に考えられてきたのが、自然自体がたまにそのルールを逸脱することで生まれてくる、という風に考えられるようになった、と著者は言います。ここがこの論文のひとつの山と言って良いでしょう。

この意識変化から人びとの考え方が、我々の時代の科学的見識にひとつ近づいたことも感じられるかと思います。しかし、もう一歩近づかなければいけない。ここまで超自然から脱自然と来ましたが、畸型もまた自然の産物であり、自然がそのルールを逸脱したからではなく、自然のルールそのものに則って生まれてくるのである、というのが我々の時代の考え方です。そこにいたるまでの変化をドライヴしたものとして、この論文ではフランシス・ベーコンの怪物研究が紹介されています。ベーコンといえば帰納法の人として有名です。彼は怪物や畸型を蒐集し研究します。「逸脱を知ったものは、自然の過程をさらに正確に記述できるだろう」。ベーコンの研究にはそんな意図があったそうです。

ただ、ここでのベーコンはあくまで脱自然と自然の過渡期の人物として評価されています。彼は十七世紀初頭に亡くなり、自然が我々にとっての自然と最も接近するには十七世紀後半のフランス科学アカデミーの活躍を待たねばならない。彼らが自然の統一性に着目することによって、畸型から宗教的な連想や、驚異は薄れていくことになるのです。このムードは十八世紀になるとイギリスにも伝わり、こんな名言を生むことになります。「生きとし生けるものをなべて統治している、素晴しい統一性に比べれば、畸型はさほど驚くに値しない」。

とはいえ、多くの学問を駆動してきたのは驚異でしょう。「うお〜、何これ〜、すげ〜!」という驚きがあるからこそ、科学の進歩があったに違いない、と勝手に想像してしまうのですが、十八世紀半ばにはこうした態度が「無知と野蛮」のしるしであって、科学は「良識と教育と学問」によって進められるべきだ、というポリシーも登場しはじめたそうです。これは現代の科学者ってなんかクールなイメージあるよね、偉いし、お堅いんでしょ? というイメージにも繋がるかもしれません。論文のなかにはビザール趣味の方面にも訴えかけてくる図版がたくさんあるので楽しいですよ。

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