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ベリオがネットで観られる時代に感動




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 イタリアの作曲家、ルチアーノ・ベリオの大問題作《シンフォニア》より第3楽章の映像(指揮はサイモン・ラトル)。この部分は、マーラーの交響曲第2番《復活》を主なパロディの対象としながら、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ベートーヴェン、ドビュッシー……などの作品を細切れにして繋げたコラージュになっており、それが「作曲行為と呼べるのか」というスキャンダルを呼んでいる。


 映像は、引用元となった作曲家の写真が重ねられ、音楽を解説するとものとなっているのだが、視覚的な情報量よりも多層的な音響の方がはるかに情報量が多い。ベリオを語る際のキーワードとして「創造的な編曲」というものが挙げられようが、《シンフォニア》はそれが最も激しい形で実行されたものだろう。過去の作曲家を素材として用い、また最後の作品となったプッチーニの《トゥーランドット》の補筆という仕事は「過去に存在したかもしれない(が実際には存在していない)もの」を発掘した作業だったとも言える。



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 また、ベリオには「超絶技巧」や「特殊奏法」といった本来なら「作品を演奏するためのもの」を抽出して作品化してしまったセクエンツァというシリーズがある(映像はトロンボーンのための《セクエンツァ》第5番)。トロンボーンを演奏しながら、奏者はその音色を声によって模倣し、その模倣はいつしか「WHY?」という問いかけの言葉へと変化していく(何故、この演奏者がこのような格好をしているのかをこっちが問いかけたいくらいなのだが)。



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 こちらはソプラノ・サックスのための《セクエンツァ》第7番(元はオーボエのために書かれたものが後に編曲されたもの)。フラッタータンギング、重音(倍音を分離させることで複数の音を聴かせる)、圧縮されたような高速のフレーズは、演奏されることで初めて楽譜から浮かび上がる身体性を聴覚に刻み付ける。


 ウンベルト・エーコはルチアーノ・ベリオを「声の作曲家」と評した。その言葉どおり、ベリオは現代の作曲家には異例なほど声楽のための作品を書いていた(それは伝説的なヴォイス・パフォーマー、キャシー・バーベリアンと結婚してのも影響しているのだろう)。しかし、この簡潔な言葉も《シンフォニア》の音響のように多層的に読むことができるだろう――「過去」からの発掘は、この世に既に存在せず声を発することの出来ない作曲家の声を現代に甦らせている。また《セクエンツァ》シリーズでは、作品に服従するものとしての演奏家の身体性を「声」として音楽化している。

 ……と簡単に紹介をしてみたが、実のところYoutubeでベリオの作品が観れるようになったのには腰が抜けるほど驚いてしまった。というのもブーレーズやシュトックハウゼンと同じぐらいのビッグ・ネームなのに、ベリオという人は本当にごく限られたところでしか言及されていない作曲家だったからだ(ごく限られたところではかなり活発に演奏されてもいる。2004年には《セクエンツァ》全曲演奏会も開かれた。これはベリオ研究の第一人者である有田栄さん*1の尽力も大きい)。これを機会に聴く人が増えたらな、と思う。





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*1:美人





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