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今日のアドルノ




数学的方法は、思考を事物(ザッヘ)にし、また自らそう名付けるとおり、思考を道具にしてしまう。しかしながら、思考が世界に同一化するこのようなミメーシスとともに、今や事実的なものだけが唯一なものになり、神の否定でさえも、形而上学の判決に委ねられるほどになってしまった。



 神話は呪術を駆逐し、近代の啓蒙は神話を退けた。それによって我々が手にしたものは、現在我々がその恩恵を受けている科学である。しかし、啓蒙が行ったことはそれだけではない。近代における啓蒙がやってのけた奇跡の源泉とは、元来我々の世界の外部に存在していたはずの理性を、我々の内部へと備え付けたことに見出せるであろう。


 外部から内部へ、そこでは理性という言葉が持つ言葉の意味が大きな変化を見せている。理性とは世界を成り立たせる根本的な論理である。世界を超越していたところに存在していたはずの理性が、我々の世界において内在された世界においては、つまるところ「私」が世界の中心となる(私の思考が世界と同一化するのである)。それによって、必然的に世界の外部は消失する。


 科学がここまで前進させた駆動力は、そのような理性の変質によってであろう。「私=世界」である時代においては、理性によって実証され得ないものは存在しない(ということになっている)。実証され得ないものが存在しているかもしれない可能性は、恐怖を生む。理性(=世界)の外部に存在しているかもしれない、未だ実証されぬものはこれまで必死に抜け出そうとしてきた神話の世界、呪術の世界へと引き戻すきっかけとなる。科学の駆動力はそのような恐怖に追い立てられたパニックによって生み出されているのだ。


 それゆえに科学は厳格なものとなる。この時代においては、神話の時代においてのような鷹揚さは許されない。神話の時代において雷は、様々な意味づけがされてきた。ギリシャにおいてはゼウスが、インドにおいてはインドラが(「ラーマヤーナではインドラの矢とも言われていたがね」byムスカ)、また日本においてはいかりや長介がそれを司る神として君臨していたが、科学の時代ではそのような多義性は抹殺されるのである。そこでは必然的に二分化コードが生じる――実証できるものは「正しい/存在する」、実証できないものは「間違っている/存在しない」というような。




(本日の一言は、『啓蒙の弁証法』、32ページより)





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