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プラトン『饗宴』




饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)








……神は人間と直接交わるようなことはありません。むしろ神々と人間との間の交通と対話とは――覚醒中であれ、睡眠中であれ――すべてこの神霊(ダイモーン)を通じて行われるのです。



 人間と直接交わろうとしない神は、ギリシャの神々だけではない。ムハンマドが初めて神の声を聞いたのも天使を通じてであったし、キリスト教においては教会を通じて神と人間とのコミュニケーションが行われていた。神は沈黙を守る。直接神とのコミュニケーションを図るものは、ほとんど失敗に終る(プロテスタントの《神への奉仕》は、不安ベースで突き動かされる《資本主義の精神》を生んだ)。神とのコミュニケーションは何らかの媒介を通過させなくてはならない。天使、聖書、賛美歌、免罪符……これらは触れることの出来ない神と人間の間を繋ぐメディアだ。


 このような関係性をより抽象化してみる――「接触不可能なもの」-「媒介」-「人間」。そうするとこれはアドルノに通ずるものとしても考えられるようになる。「真理を直接的に語ることは不可能である」とアドルノは言う。真理は直接的には接触不可能である。直接的に語ろうとした瞬間、真理からは「浮動的なもの」がぼろぼろと零れ落ちていく。だから、媒介されなければならない。そのために書かれたのが、アドルノの音楽批評である。ヘーゲルを通したベートーヴェン、ベートーヴェンを通したヘーゲルによって真理は語られることとなる。


 またこのとき、アドルノは解釈のためのコードを用いない解釈を行う。アドルノが語るヘーゲルはベートーヴェンという媒介を用いる。アドルノが語るベートーヴェンはヘーゲルという媒介を用いる。読解するためのコードを用いて「隠れた意図」を探し当てようという「解釈」は、直接的に「作品」に触れようとする行為である。音楽作品も哲学的著作も、それ自体は沈黙を守っている。それ自体は声を発さない。



正しき意見とは明らかに智見と無知との中間に位するようなものというべきでしょう。



 「○○は△△である」という言い切り方はそこでは行われない。アドルノはベートーヴェンとヘーゲルとの中間に位置した批評によって「意見」を響かせるのだ(追記;訂正線を入れた部分に関しては大幅に書き換える必要アリ。ちょっと自分の中で《媒介》概念がズレてきていた)。







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