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坪口TRIO+2@新宿ピットイン




ANDROGRAFFITI

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 DCPRGで刺すようなキーボードを弾いていた坪口昌恭のトリオを聴きに行った(他のメンバーは菊地雅晃、藤井信雄。この日はエレクトロニクスでNUMB、ヴィブラフォンで三沢泉が参加)。お客さんはピットインの椅子が適度に埋まるぐらい。明日の東京ザヴィヌルバッハがソールドアウトしているのを考えると「菊地成孔の人気って今すごいんだなぁ」と思ってしまう、それぐらい意外なほどの「適度な客入り」。セロニアス・モンクの曲とオリジナルの曲を演奏しているのを聴いて「こういうジャズの延命法もあるのだなぁ」とか思った。


 今、東京には色んなジャズの「形」がある。未だにバップをやっている人もいる。未だにフュージョンの人もいる。未だにフリーの人もいる。時間が止まっているかのような状態で(それ自体は悪いことではない)ジャズが演奏されている一方で、新しい「ジャズ」を生み出そうとする人たちもいる。例えば、「音響派」と「ジャズ」を組み合わせたジャズ。あるいは、70年代マイルスの音楽をよりソフィスティケイトしたジャズ(・ファンク)。坪口TRIOのスタイルもこの「新しい方のジャズ」に分類されるだろう。


 だが、坪口TRIOの「新しい方」のなかでの存在感というのもかなり独特だ。一聴して、かなりオーセンティックなジャズ、特にフリー以降の「新主流派」的な、フォーマットが敷かれている。目新しいものは特に存在しない。NUMBが客席の一番後ろで機材を操作し、リアルタイムでピアノの音を変調させていたとしてもその「ジャズ的」な形は揺るぎない。この「揺るぎなさ」が、大友良英や菊地成孔の「ジャズ」とは大きく異なっているように思える。もっとも、大友のジャズは「時代と共に変容する音楽」として、また菊地のジャズは「セクシーで高級な音楽」として、共にジャズ的ではあるのだが。


 坪口TRIOのジャズはまるで「ジャズの巨人」が、現在のトレンドと遊んでいるかのような、そういう印象を受ける。エレクトロニクスなどの機材面においても、ポリリズムなどの音楽的な語法においても。もしかしたらハービー・ハンコックやチック・コリア、それからジョー・ザヴィヌルが30歳若かったらこういう音楽をやっていたかもしれない(でもキース・ジャレットはそうしなかったろう)……そういう想像力が働く素晴らしい音楽だった。


Masayasu Tzboguchi(MySpace)





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