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キース・ジャレット『残氓(ざんぼう)』





 私の実家はほとんど誰も音楽を聴かず、また本を読まない文化的に不毛な家庭だったのだが、何故か高級かつ巨大なステレオ装置と何枚かのレコードがあった(父親の所有物だったのだが、別に父親も音楽が好き、というそぶりを見せなかった。たぶんそういうものを買う世代だったんだろう、と思う。読みもしない百科辞書をリビングに飾るみたいに)。高校の頃、誰も使わないし触りもしないその機械を勿体無く思った私はMDのデッキを買って、それでウチにあったレコードを片っ端からデジタル化していった。キース・ジャレットの『残氓』もそのなかの一枚だった。これを先日、実家に帰ったときに聴き直した。


 キース・ジャレットといえば、未だに「好きなジャズ・ピアニスト」のランキングでトップに並ぶほどの絶大な人気を誇る人として有名である。が、スタンダード・トリオとかソロでのインプロヴィゼーションの人気が集まっている一方で、1970年代に彼が「前衛派」に接近しようとして製作したアルバムの大半が完全に黙殺されてしまっている気がする。マイルスの80年代以上に「誰も触れないし、誰も聴かないもの」として扱われている。


 私個人としては、この頃のキース・ジャレットのアルバムも「聴ける」。少なくとも80年代マイルスみたいに「痛いなぁ、キツいなぁ」という感想を抱かない。この頃のキース・ジャレットは明らかに「魔術的なアフリカン幻想」や「神秘主義」への傾倒が感じられ、とにかくそこに「時代」を感じてしまうけれど、それは「痛い」というほどのものではない。だからと言って「これは出るのが早すぎたんだ……!」という驚きも無い。


 けれども、やっぱり「聴ける」。聴けてしまう。結局それはキース・ジャレットという人の音楽性って装いをどんな風に変えても、根本的な部分が変わっていないからではないだろうか、と思う。この人の場合、独特なリリシズムと独特なロマンティシズムが根底に備わっていて、異教的なジャズをやろうが、スタンダードをやろうが、ソロでウーウー唸りながら即興をやろうが、頑なに「美しくあろう」という部分に変えようとしない。その根本的な態度を異質なものにアジャストしていく、そういう器用さもある。ただし、器用さにおいてはその遥かに上を行く、ハービー・ハンコックという「カメレオンマン」がいる。そして私はハービーの方を取る。





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