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イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #5




Giordano Bruno and the Hermetic Tradition (Routledge Classics)
Frances Yates
Routledge
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今回から第2章「フィチーノの『ポイマンドレス』と『アスクレピウス』」に入っていきたいと思います。第1章は細かく見すぎて、もともと誰向けのものなのかよく分からないこの企画がますます「誰が得するんだ」感を強めてしまったので、すこしペースをあげるぞ!(宣言) さて、この章はフィチーノが翻訳した『ポイマンドレス』(彼が訳したヘルメス文書の14巻分に与えたタイトル)から重要な部分を要約して、フィチーノがどのような註釈をつけていたのか、を確認する章になっています。その内容ですが結構トんでいて、かなり面白い。かなりニューエイジ感やカルト感が高まってくるため、この話をブログに書いていたら7次元宇宙と更新できる人たちからコンタクトされてしまうのではないか、とドキドキしてしまうところです。





ここでイェイツは本題に入る前にいくつかヘルメス文書全体で持つトーンのようなものについて説明を加えています。前の章でも触れられた通り、ヘルメス文書は大部分が1世紀~3世紀に渡って(おそらくさまざまなギリシャ人によって)書かれた偽エジプト文書なのですね。ですからあちこちに矛盾があったり、齟齬があったりしているわけです。しかし、ヘルメス文書すべてがもっている要素はある。それは、個々の魂が啓示をもとめ、直観を通して神に近づくことで宇宙全体を理解する、というような宗教体験についてです。また、地上世界は星と惑星によって支配されている、という占星術的な宇宙体系も基本的な世界観としてもっている。





イェイツはフェステュジェール(Festugière。読みについてはid:la-danseさんに教えていただきました)をひきながら、この世界観も2つのタイプに分けられるのだ、と言います。どちらもグノーシス主義なのですが、一方は悲観的なグノーシス、もう一方は楽観的なグノーシスである、と。前者においては、物質世界が邪悪な星々の影響で満たされており、人々は可能な限りそうした悪いものと関係することを避けなければならない、人々は輝ける魂を持ち悪しき物質世界から飛び立ち、惑星の天球へと昇るべきであ~る(非物質的神の世界であるそこが本当のホームなんだよ!)という二元論が考えられていました。書いててかなりヤバい、まるでサン・ラかコバイア星人みたい! という感じが最高ですね。これに対して楽観的なグノーシスはほとんどその逆です。世界は神的なもので満たされており、神の命によって大地は生きて動いており、星は神の動物で、太陽は神のパワーによって燃え盛っている。自然(Nature 本性なのかも?)において悪い部分なんかない。何故なら世界のすべてが神だからである、とこんな風。悲観的グノーシスがサン・ラならば、こちらはマイケル・ジャクソンだ! と血走った目で言うことができるかもしれません。





イェイツがこの章で要約をあげているヘルメス文書の部分は次の5つです。




  1. エジプトの創世記(部分的には楽観的グノーシスだが、部分的に二元論的グノーシスがまじっている)

  2. エジプトの新生(二元論的)

  3. エジプトの意識への宇宙の反映(楽観的)

  4. 自然と人間についてのエジプトの哲学:大地の律動(楽観的)

  5. エジプトの宗教(楽観的)


「1.」は、ほとんどそのまんま。ヘルメス・トリスメギストスが神の知性であるところのポイマンドレスと出会い、異常な宗教体験のなかで世界の創世について教わる、という話です。ここでヘルメスは超能力を授けられ、人々を正しい方向に導くよう説教をはじめる。フィチーノはこれを「うわっ、創世記そっくりじゃん! すげぇ! モーゼと同じこといってる!」という具合に驚いて注釈をつけていました。この関心は後年も続き、彼は『プラトン神学』という本のなかで「ヘルメス・トリスメギストスはモーゼだったかもしれない」とまで述べているのだとか。ただし、もちろんモーゼの創世記と、エジプトの創世記にはたくさんの違いがあります。





「2.」はヘルメスの息子であるタトが父に対して新生の原理について教えを請う話です。これは世界の幻想に対しての意識を強くしようとして、最後の儀式の準備をしていたところなんですが「ねえねえ、おとうさん。どうやって人間は生まれてくるの?」式の対話なんですね。ヘルメス曰く、人間はまず神によって叡智を授けられた非物質的なものとして誕生するのですが、肉体を得た段階で12の大罪を負うことになり(キリスト教より5つも多い!)、人間はそれに対応する12の徳によって、その罪を打ち消していかねばならんのだよ、とのこと。これに対してフィチーノは、大罪と徳の対応を整理していたようですが、ところどころ紐づけを忘れてしまった部分がある、とイェイツは指摘しています。





「3.」はヘルメスと神の知性との対話です。ここでは、ひたすら宇宙最高、神最高、世界は神、世界は永遠、世界はひとつ、みんな滅びない、という世界観が語られます(楽観的グノーシスだけに)。すべてが神の一部であり、神の内部にあるのだが、それは一か所に固定されているわけではなく、常に動いている。けれども、世界を理解するには自分が神の境地にでも達するしか方法はない。その境地に立ちさえすれば、もはや神は見えないものじゃない! これをフィチーノは単なる短い要約、みたいに扱ったのだそうです。イェイツが言うとおり「3.」の世界観は「1.」や「2.」とことなっていますよね。





「4.」はふたたびヘルメスとタトの対話になります。ここでは神は人間に知性と言葉という「不死と同じぐらい価値のある才能」を授けた、とか。世界の不滅性が語られる。ここでは人間もまた神の一部ですから、死んでも死なないのです。こうして書いてしまうと阿呆のようですが、死とは単に、それまでその存在を構成していたつなぎ目がほどかれるだけであって、存在を構成していた要素は消失せず、要素から再び存在が生み出される、という風に説明がなされます。世界のすべてはこのスクラップ&ビルドによって運動しており、大地でさえも動いている、とヘルメスは言います。しかし、これもフィチーノによれば単なる要約以上のものではない、ということです。





「5.」は、ヘルメスとアスクレピウス、タト、ハモン(ここではじめてでてきた名前かな)がエジプトの寺にあつまり、神秘経験をしてしまう、という話です。神の愛がその聖なる場所を包み、神はヘルメスの口を借りて語り始める……という恐山みたいな状況。ここも世界はひとつで、すべては天上とつながっている、ということが説明されています。また人間は地上の生き物では最も偉い(半分は神から力をもらってるので)。ただ、神は天上に第二の神を想像しており、それぞれに役割を与えて地上を統括しようとしたんだとか、神様は36人おり、それらは黄道帯の10度ずつに位置がきまっていて地上を支配してるんだよ、と占星術的なところにも触れられています。また、このなかには『嘆き(または黙示録)』と呼ばれている部分があります。これも呼び名のママなんですけれども、エジプトの終末の日、みたいな話で。どこかで神様がみんなエジプトを見放してしまうと、信仰なんか無駄になってしまって、悪徳が栄える日がきてしまう……けれども神は最終的にはどっかでそれらをすべて一掃してしまい、また新しく善良な世界を再創造するんだよ、という話です。なお、この部分についてはフィチーノはコメントを残していないらしい、とのこと。





こういうモノがルネサンス期にはヨーロッパには広がって、それがルネサンスの魔術の復興を促した、というのは前章でも見たとおりです。この章の最後でイェイツはシエナのドゥオモにあるヘルメスの壁画をとりあげ、当時、ヘルメスが高い精神的なポジションに祭り上げられていたことを指摘しています。これがその壁画。





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左のターバンをまいてるのがモーゼ、右側で変な三角帽子をかぶっているのがヘルメスです。これをみるとどっちが偉い人物なのか一目瞭然ですね。この当時、ヘルメスはこれぐらい偉大だと思われていたことがここには反映されている、とイェイツは言います。しかもこれはイタリア・ルネサンスにとどまらず、16・17世紀にわたってヨーロッパ全体に広まっていく……というところで第2章はおしまいです。おつかれさまでした。





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