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読売日本交響楽団 第507回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール




指揮:シルヴァン・カンブルラン(読売日響常任指揮者)


メゾ・ソプラノ:カタリーナ・カルネウス


テノール:ジャン=ポール・フシェクール


バス:ローラン・ナウリ


合唱:新国立劇場合唱団


合唱指揮:三澤洋史


ベルリオーズ/劇的交響曲〈ロミオとジュリエット〉作品17



ベルリオーズって実はほとんど聴いたことがない作曲家であって、CDも昨年カンブルランが振った《ローマの謝肉祭》(読響定期会員特典CD)しか持っていないし、有名な《幻想交響曲》だって「ファゴットが4管で鐘が鳴ったりして怨念がこもってるとかこもってないとかな曲」ぐらいな認識しかないので、この日の演奏会はどうしたってカンブルラン×読響がどんな演奏を繰り広げてくれるのか、が目当てになってくる。で、やっぱり期待を裏切らない、というか。日本でこの組み合わせを定期的に観れることを幸せだと思うべきであろう、と思ってしまいます。桂冠名誉指揮者になったスクロヴァチェフスキはもはや現人神で「凡夫はその音楽を批判してはならぬ(ただひれ伏すのが正解)」状態になってしまった感がありますが、本当にありがたく聴くべきはこちらなのでは。毎度のことながら音楽の流れやドラマの作り方が溌剌としていて、知らない曲でも要所要所で「クワッ」と魅せてくれるポイントを作ってくれますので飽きません。常に何かが起きるのでは、という引きを作ったままの状態、と言いましょうか。今、この場で鳴らされている音楽に触れることが楽しくて仕方がない、という聴取感は特別。曲をよく知らないので細かいところには触れられませんが、ベルリオーズ、良いな、面白いな、聴いてみようかな、という気にさせる演奏だったと思います。かの《ロミジュリ》を下敷きにした劇的交響曲なわけですからドラマティックな楽想なのは同語反復的で当たり前……ですけれど、煩悶するような半音階の旋律は無調のようにも聴こえ、うわ~、進んでる作曲家だったのだな~、と阿呆のように感激しました。





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