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菊地成孔・大友良英 デュオ @新宿ピットイン



今年で7周年を迎える菊地成孔の新宿ピットイン3デイズ。2日目の大友良英とのデュオを観にいく。この2人のそれぞれの演奏は何度も観てきているし、これまでの共演歴についても承知していたが、一緒に演奏しているのを観るのが今回が初めて。トークがメインに据えられているのではないか、と錯覚するほど終始和やかにすすめられたライヴだった。





トークのなかで菊地は「ただ聴いて、気持ち良くなって帰ってもらうこと」を意図している、と発言していたが、演奏にもその意図が反映されているかのよう。即興も大友の《ニュー・ジャズ》ライヴで観られる、下手したら切られてしまうような、張りつめた即興ではない。長く親交があり、手の内を知り尽くした共演者同士の対話、というか、上質な家具のような即興、というか。「こういうタイプの即興もあるのだな」と感心してしまった。演奏者と観客が互いに眉間にシワを寄せる表情をして、険しい緊張感のなかから音が生まれてくるのだけが即興音楽ではない。もしかしたらこれは、アート化からはズレた《ニュー・ジャズ》なのかもしれない。





前半のセットで長い即興と、短い即興を。最初は菊地がピアノで、フレーズ感の短いメシアンを彷彿とさせる音を放っていたのが印象的だった。これに対し、大友はEボウなどを駆使して多彩な音色を展開する。しかし、空間を埋め尽くすようなノイズはなく、淡く控えめに音が出され、消えていく。それは様々な大きさをしたピアノの音粒に対して、筆で色のラインを引くようなコントラストを描くようなイメージだった。短い即興で菊地がサックスに持ち替えると、饒舌な歌に対するギターの態度はまた変化する。





後半のセットでは、即興だけでなく、作曲作品も披露された(即興のテーマは『ブラジリアン』とのこと)。大友は2曲で、プリペアド・アコースティック・ギターを使用していたが、最初の曲は『デ・デュギュスタシオン・ア・ジャズ』の収録曲だったか。ヘレン・エリクセンの「Miles Davis」では菊地によるヴォーカルも披露されていた。これまで菊地のヴォーカルには複雑な気持ちにさせられることが多かったが、この日は良い気分で聴けたのが不思議(本人は風邪のためコンディションが良くなかった、と語っていたけれども)。それは大友のギターとの相性なのかもしれない。今年のアート・リンゼイの公演も、大友による歌モノの伴奏が素晴らしかったことを思い出した。





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