スキップしてメイン コンテンツに移動

『Newton』10月号




Newton (ニュートン) 2011年 10月号 [雑誌]

ニュートンプレス (2011-08-26)



ほぼ定期購読状態になっている雑誌『Newton』、先月までは創刊30周年での「宇宙特集」でしたが今月は「太陽地球コネクション」が第一特集にあげられています。地球温暖化への警鐘が喧しく鳴らされている昨今ではございますが、実は現在太陽は活動を弱めつつあるのではないか? 17世紀中ごろから18世紀初頭にかけて地球を襲った小氷河期がふたたびやってくるのではないか? という予想がたてられているそうです。今回の特集では、そうした太陽活動と地球の気候の関連性や、太陽の活動周期や現象のメカニズムについて詳細に解説がなされていました。面白いのは、太陽の活動が大きく変化していても地球とかなり距離があるおかげで直接的な影響は小さそう……にも関わらず、何らかの影響は与えられている(つまり、よくわかっていない)ということでした。





しかし、今回一番刺激的だったのは「『高レベル放射性廃棄物』の有害性は、減らせるか」という記事です。3月の地震以降、『Newton』では継続的に原子力と地震関連のトピックが扱われています。そのなかで原子力関連の記事は読むだに「こんな大変なモノ、もう増やしてはダメだろう」という気持ちにさせられるものが多かったと思います。特に使用済み核燃料から発生する「高レベル放射性廃棄物」は、元々の原料であった天然ウランと同レベルの有害度になるまで1万年以上かかってしまう、という半端ではない代物で、しかも処理方法をどうするかほとんど決まっていない、という大変な問題を抱えているのですね。1万年以上経ったら、人類がニュータイプへと進化するどころか地底人や爬虫類人などのニュータイプが生まれてきそうな気配さえしてしまうところです。





けれども、使用済み核燃料から再利用可能なウランとプルトニウムを分離する技術と、残ったマイナーアクチノイド(ウランの核分裂によって発生するプラトニウム以外の希少な人工元素の総称。大体半減期がめちゃくちゃ長い)を核分裂させて半減期の短い物質や非放射性物質に変える技術(核変換)が確立すれば、こうした「高レベル放射性廃棄物」の問題は劇的に変化する可能性がある、というのが今月号の記事に書かれています。とくにマイナーアクチノイドを核変換させる技術の話はかなり未来感がある。マイナーアクチノイドは通常の原子力発電所のメカニズム(水で中性子を減速させる)では核分裂がおきにく物質であり、それを核分裂させるには速い中性子をブチあてなければならないそうです。現状では、大変評判が悪い「もんじゅ」のような高速炉でなければ、この現象はおこせない。





でも、もうひとつ加速炉(加速器を使って陽子をもの高速に近いスピードで射出し、特定の物質にブチ当てると中性子が発生する。その中性子によってマイナーアクチノイドを核分裂させる)という技術はまだまだ基礎研究の段階で将来性があるのだとか。これが分離技術とともに確立されれば高レベル放射性廃棄物は、100~300年ぐらいで放射能の減衰がされ、しかも廃棄物として保管しなければならないモノの量も激減するのだそうです。うおお、すごい。何がなんでも原発はダメ、という方にとってはどうでも良いと思いますが、こうした将来の可能性もあるわけですから、日本の原子力関連の研究者の方々にはめげずに頑張っていただきたい、と思います。





また「『科学的に正しい』ってどういう意味?」という科学リテラシーについての記事も必見でしょう。毎度のことながら科学ニュースのコーナーもかなり面白かったですし、「虹 空と地上の架け橋」という記事の写真(二重の虹や、平行の虹、赤く輝く虹など貴重な写真が満載)も素晴らしかったです。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...