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イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #6




Giordano Bruno and the Hermetic Tradition (Routledge Classics)
Frances Yates
Routledge
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今回は第3章「ヘルメス・トリスメギストスと魔術(Hermes Trismegistus and Magic)」を見ていきましょう。ここはヘルメス主義における魔術とはどのようなものであったのかがまとめられた章です。イェイツは、ヘルメスによって書かれたテキストとされているものについて完全に分けることは難しいが2つに分類することができるだろう、とこの章の冒頭で言います。1つは「哲学的な作品」。これまでの章でも登場した『アスクレピウス』や『ヘルメス文書』と呼ばれるものがそれ。もう一方は「占星術、錬金術、魔術に関する作品」。この章は後者がメインになるのですね。





イェイツ曰く、魔術とグノーシス主義は不可分です。第2章では悲観的/楽観的という2種類のグノーシス主義が登場しましたが、魔術に関してもそれぞれで性質が違うようです。悲観的なほうは呪文や秘印を星々の悪しき力を処理するために用いられるそうですが、楽観的なほうは宇宙のパワーはすべて善と信じているのでそうした力を得ることに恐れがないんだとか。いわば、引き算の魔術と、足し算の魔術とでも言えるでしょうか。これらが具体的にどういうものだったか、というところは実際に本文をお読みいただくとしましょう。とにかく複雑な術だったそうで、例えば金星の力を得ようというものなら、魔術師は金星のイメージを把握しなきゃいけないし、しかるべきタイミングにしかるべき素材を用意しなきゃいけない。もちろん惑星だけじゃなくて星の運行とそれぞれの影響関係も把握する必要もあります。黄道帯の10度の角度ずつに神様がいて36人も神様設定されてるわけですから、それを覚えるだけでも大変でしょう。





このような枠組がヘルメスによって書かれたとされるものには共有されていて、これらのなかにはいくつもの実践例があるようです。例えば、ヘルメスによってアモンに捧げられた占星術的医学についての本では、どのようにして星々によって引き起こされる病気をケアし、良いことをを増やせるのか、について書いてあるんだとか。イェイツは、こうした記述が「ヘルメス・トリスメギストス」という名前を魔術師と紐付けたのだろう、と言います。中世においてもヘルメスの名前は錬金術、魔術と結びつく人物としてよく知られていました。しかし、当時は、星々の神々は危険な悪魔であるとして恐れられていたそうです。アルベルトゥス・マグヌスも「ヘルメスの本には地獄の魔術が含まれてる」と批難したんだって。しかし、一方で中世の自然哲学者にはヘルメスをリスペクトした人もいた模様(そのひとりにロジャー・ベーコンがいる)。





こうしたヘルメス・リスペクト系のものには『ピカトリクス(Picatrix)』という本があり、イェイツはこれを重要視しています。なぜならこれがフィチーノの魔術のよりどころのひとつの可能性があるからです。おそらく12世紀にアラビア語で書かれたこの本には、当時のアラビア世界におけるヘルメス主義やグノーシス主義の影響が色濃く反映されているそう。そこには実践的な魔術の指南や手引書的な内容があるんだとか。イェイツはこれをフィチーノやその周辺の人物たちが参照して魔術を学んでいた、と言うのですね。ラテン語訳の『ピカトリクス』は広く流通していたそうです。しかし、この本は出版されることがなく15~16世紀にかけて写本だけで出回っていた、しかも15世紀以前にこの写本は見つかっていないのです。イェイツはこの流通の規模はヘルメス主義の全盛期という時代が可能にした、としています。





『ピカトリクス』が伝える魔術の内容がどうのようなものであったのか、についてはまたもや本文をお読みいただくとしましょう。イェイツが特に注目しているのは第4の書におけるヘルメス・トリスメギストスへの言及です。そこでヘルメスは初めて魔術的な図像を使った人物であり、エジプトに素晴らしい魔術都市を作った人物と紹介されています。その都市にはさまざまな魔術がしかけられていて、良い星の影響しか街に入ってこないように設計されていたそうですからさながらヘルメスはエジプトの風水師でもあったのかもしれません。魔術の類は中世では禁止されたり、初期キリスト教の教父たちのなかでも厳しい意見がでたりしても、こうしてルネサンス期まで生き延びることになります。そして、魔術が爆発的な復興を遂げるきっかけとなったのは、やはりフィチーノだったのです……というところ第3章はおしまいです。おつかれさまでした。





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