V.A.
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沢尻エリカのスキャンダラスな話題はテレビ的にはもうオリンピックでかき消されている、という感じでしょうか? 観ているあいだの2時間半は、途中で幾度も挿入される「なんか映像美らしきモノを追求しているのでしょうか、これは」というシーンが苦痛とも言える間延びした時間感覚を提供しており「長い! タルい!」と叫びたいぐらいでしたが、少し時間が経つと、それほど悪い映画ではなく、酒飲み話を提供してくれる映画としてすごく優秀な問題作だったのでは、と思いました。上野耕路によるスコアはショスタコーヴィチの交響曲第8番やヴァイオリン協奏曲第1番、ラヴェルのピアノ協奏曲の第2楽章をモチーフにした曲(というかほとんどパクっているもの)が印象的でしたけれども、劇中では2曲、そうしたニセモノではないクラシックが使用されていて(戸川純『蛹化の女』を含めれば3曲)、ニセモノとニセモノではないモノの対比が気になってしまい、そこで使用されている曲(ベートーヴェンの第九! そして、ヨハン・シュトラウス2世によるドナウ!)について考えを巡らしていたら「え、もしかしてアレはキューブリックだったの!?」とか、そういう妄想を掻きたてられる。
原作は90年代の東京でしたが、映画は一応現代に時代が置き換えられている。この置換は少しちぐはぐなように思えました。消費する主体の象徴として、冒頭から女子高生がフィーチャーされたとき、映し出されるのは白いルーズソックス、そして終盤には浜崎あゆみが流れる。私は蜷川実花がどういう人なのかよく知らないのですが、この現代の渋谷との乖離は「おばさんが描いた現代風俗なのでは」と率直に感じたのですね。これは「諸星大二郎が割と最近の作品で描いている若者」に感ずるズレ(とそのおかしみ)にも似ている。もしかしたら、それは現実に存在しない、軽薄で汚れた架空の渋谷、の表現だったのかもしれませんが、悪い意味での希薄な現実感しか感じません。ただ、最もリアリティがないのは、沢尻エリカの肉感的な太ももで「トップモデル」という設定、同点優勝で寺島しのぶが車を運転するシーンでのハンドルの動き、でした。特に後者は「この映像にOKを出した人は、普段どのように現実を見ているのだろうか」と不安に駆られるモノで、嘘や虚構はホンモノっぽくなければ、成立しないのでは、と考えてしまいます。
原作のテーマを殺さないために、90年代に存在しなかったものが映画のなかで足され、現代に存在するものが映画から排除されているのは致し方ありません。しかし、映画のなかに「K-Pop」がなかったことに気づいた瞬間、もはや原作のテーマが決定的に古くなっている、と気づくのです。人体にメスを入れることは身近になり、そうでなくても人体に何かを接着して、肉体を改変することができる。また、仮想的に肉体を改変することも一般的に愉しまれてしまっている(デカ目プリクラがその象徴と言って良いでしょう)。原作では、そうした改変は、欲望が過剰に投射されたグロテスクなものとして描かれているように思うのですが、今やテクノロジーの進化によって、改変がポップなものとなりつつある。グロテスクであることを愉しんでしまえるテクノロジーが現在存在し、それらは我々の道徳を書き換えてしまうのです。
驚いたのは、全身整形をした主人公が、マイケル・ジャクソンについて言及するシーンです。ここは抗議を出しておくべきでしょう。身体をイジっている、という点では、主人公とマイケルは一致していますが、ふたりの行動原理はまったく異なっているのですから。大衆の集団的無意識のスクリーンとして自らの身体を消費的に提供し続けることで生き延びようとする主人公りりこは当初、とても他律的に生活させられているのですが、終盤では、そうした他律性を自律的に上書きしてしまう。「最高のショーを見せてあげる」というキャッチコピーは、行動理念が上書きされたりりこ(2.0)によるものです。そこにはある種のプロフェッショナルとしての決意が感じられる。一方、マイケル・ジャクソンはどうだったでしょうか。誰がマイケルの鼻が尖っていれば良いと思ったのか、誰がマイケルの肌が白くなれば良いと思ったのかを考えれば、両者の違いがすぐに明確になります。誰もそのような変化を彼に求めていなかった、にも関わらず、彼は様々な素晴らしいモノ、得がたいモノを提供し続けていました。ここには、使命感の強い職業人と天才的な芸術家の違いがあると言って良いでしょう。
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