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J. D. サリンジャー 『ナイン・ストーリーズ』


ナイン・ストーリーズ (ヴィレッジブックス)
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柴田元幸の『ナイン・ストーリーズ』新訳が文庫化。どんな名訳であっても時代とともに古びてきてしまう、といったのは柴田元幸だったか、村上春樹だったか。今回この訳でサリンジャーに触れてみて、その言葉の意味を体感的に理解できた気がする。ソープオペラ風、というか、リズミカルでテンポ良く進んでいく海外ドラマの吹き替えのような文章は、とても生き生きとしていて、これまで親しんできた作品が鮮やかな色で修復されたかのよう。新しい価値を付加する訳、本当の姿を掘り起こす訳、いろんな新訳の形があるわけだが、これによって野崎孝訳の価値が失われてしまったわけではなく、今のところ多くの読者が、野崎訳があって、そして柴田訳がでてきたという読み方をしている人がおそらく多いはずなのだ。そこで新しい訳を読んだとき、古い訳を初めて読んだ時の感覚までもが克明に蘇っていくようであれば、これも新訳の成功なのかもしれない、と思った。単にそれが「久しぶりにサリンジャー、読んでみようか」というきっかけを与えてくれるだけでも、ありがたいことではある。

しかし、こんなにナイーヴな人たちがでてくる小説群だっただろうか、と思うのだった。単に神経症的なものではなく、戦争や巡り合わせによって感性を傷つけられた人々ばかりが主人公になっていることに昔読んだときは気づいていなかったが、これではサリンジャーのテーマといわれる「無垢なもの」の存在は、物語のはじめから傷つけられているようだ、と感じてしまう。だからこそ「コネチカットのアンクル・ウィギリー」や「笑い男」、「ディンギーで」、「エズメに 愛と悲惨をこめて」に登場するこどもの存在が、一層輝いて見えるのかもしれない。何年かぶりに「エズメに」を読んで、ウッと少し泣いてしまったりして(電車のなかで)、気持ち悪いことこのうえないのだが、サリンジャーが描くこどもの姿とは「かわいい」というたった一言でのっぺりと描かれたものではなく、理解不能であったり、不可解であったり、または腹立たしい存在であったりし、分別がついていないことが即ち、無垢なのだ、と言うことさえできそうである。

そうした分別のつかなさが「テディ」というシーモア・グラースの原型であろう少年が登場する作品においては、違った形で描かれる。この作品の主人公、テディ(10歳)は東洋哲学に傾倒した天才少年で、毎朝瞑想をしてみたり、いきなりジョージ・バークリーみたいな観念論を披露してみたりして、周囲の大人に不可解な気持ちをいだかせまくるクソガキである。この後半部で、テディは教育学を研究しているニコルソンという人物と禅問答をおこなうのだが、少年がニコルソンにしきりに伝えようとするのは、世界の分節線を忘れ、むき出しの意識で生きよ、という禅の境地なのだった(この部分は井筒俊彦『意識と本質』を想起させられた。この記事の三段落目からを参照のこと)。

この作品の初出が1953年だそうなので、鈴木大拙がアメリカで講義をおこなっていた時期とカブるのだが、こんなものが果たして当時のアメリカ人に理解されたのだろうか(シュタイナー流の神秘主義経由で曲解されてたりしそうだが)とも思われてしまう。それと同時に、ここで行われている、こどもの分別の無さとロゴスを捨てよ、という思想との接続はなかなか大胆なモノだったのでは、とも感じる。サリンジャーがどの程度本気で東洋思想にのめりこんでいたかはわからないのだが、彼の作品への東洋思想の反映は、50-60年代のアメリカの知識層にどれだけ東洋思想が理解されていたかを見てとるための素材になるのかもしれないし、東洋思想小説……でありながら、なんかムカつくガキの小説、というのは、やはり希少な作品であるなあ。

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