そうしたものは、ある程度の画一化された身体を生産するだろう。しかし、その拘束性は歪みを生み、「ある程度の」のその先へ向かえない。かつてキックボクシングを練習していた著者はこのように綴っている。
おかげでそれなりの強さも得られたが、かわりに心身の隙間に恐怖が入り込むようになった。というのは、この強さは競技の範囲においてしか通用しないことを知っていたからだ。いざというときに起こりえるのは常にルールの外のことだから、そのことに怯えるようになった。息苦しさを伴う近代的な身体は、身体を縛るルールから放り出されるとたちまち役に立たなくなってしまう。このルールは、社会のルールにも通じる。社会で生活するうえで、我々はまるでゲームのごときルールに沿って、規律化されながら生きることに慣れすぎてしまっている。「早起きをして朝仕事をしろ」、「TOEICの高得点を目指せ」、「年に1つずつ新しいプログラミング言語に挑戦しろ」……などなど。著者の表現を借りればまるでライフハックが社会を生きるための「必殺技を会得する要領で」考えられている。しかし、ルールが外れた瞬間に、TOEIC950点のスコアは昇竜拳ではなくなり、弱パンチほどにも役にたたなくなることは容易に想像がつく。
もちろん、そこで著者は「TOEIC950点をとれ? お前それサバンナでも同じ事言えんの?」式の提唱をするわけではない。たしかに「戦場」ではTOEICのスコアよりも、ご飯の炊き方などのほうが役に立つだろうけれど、それでは近代に対して「昔に戻れ!」というだけの反近代に終わってしまう。著者が韓氏意拳や甲野善紀のもとでの稽古から得たものは、もっとアナーキーだ。これらの武術は、息苦しさの源である身体の統御、反復による型の習得を放棄する。ここでは精神によって、身体が統御される、という西洋哲学式の人間観は逆転される。身体は精神よりも先にあり、精神は身体の声の聞き手にならなくてはならない。身体から生まれた感覚のなかに知性がある。そうすることで、息苦しくない身体の動かし方を見つけられる。
それがどうしてアナーキーなのか。韓氏意拳が目指す「ただ動くこと」の理想(もちろん、確固とした理想形があるわけではない)には、子供の「ただそれがやりたい」というふるまいが類比的に並べられる。息苦しくない身体が、社会化されない子供の身体なのだとしたら、それはとても危険で、魅力的な思想である。もちろん、われわれは社会化されないことを許されない。しかし、著者によるこの身体の哲学は、純粋であろうとするためのヒントを与えてくれる。知識や概念によらない、知的で、流れるような記述もとても魅力的である。
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