たとえばリヒャルト・シュトラウスとストラヴィンスキーが登場するこんな話がある。
ベルリンでの《ペトルーシュカ》の初演のあとで、リヒャルト・シュトラウスはストラヴィンスキーのお祝いを言った。あるいはバックハウスについては、
「ですがね、文句を言いたいことが、ひとつあるんですよ、ストラヴィンスキーさん」と、そのあとでシュトラウスは付け加えた、「なぜあなたは、ピアニシモで始めるんです。いいですか、あれはいけません——経験をつんだ老人の忠告はお聞きなさい。あなたは聴衆をまずぎょっとさせなければいけません——どかんと、ひとつやって。そうすれば、そのあとは、あなたがどこへ行こうと、なにをしようと、みんなはあなたについてくるものですよ」
82歳のバックハウスが、ヴィーンの音楽祭で、ヴィーン・フィルと共演したとき、聴衆からばかりでなく、楽団の全員からも、嵐のような拍手喝采をうけた。これで笑うためには、リヒャルト・シュトラウスがどんな楽曲を書いたのか、バックハウスがどんなピアニストだったのか、という前提知識がなくてはならない。本書が書かれた時代とは、そうした前提知識がよく活用された時代であり、いま、その前提知識を得るための基盤のようなものは、どんどん目減りしていっているのではないか、と思ってしまった。
ちょっととまどったような顔でそれを受けたあと、バックハウスは言った。
「わたしは、いまふたたび、わたしの一生の出発点に立ち戻ってきた。わたしが12歳ではじめて舞台に立ったとき、人々は言ったものだった。あの年にしては大したものだと。きょうもまた、人々は同じことを言っている」
そうしたものを「文化」と呼ぶのであれば、インターネット上で簡単に情報が得られ、過去の巨匠たちの音源が驚くほど安価で大量に手に入る状況にも関わらず、文化はどんどん貧しくなっている、とも言える。世界的にクラシック音楽というジャンルは苦境に立たされ「守られるべきもの」として捉えられている(はずである)。ただ、そうして保護の枠にいれられることで、より堅苦しく、より息苦しくなってはいないだろうか。たかがジョークの本から、こんな感想を述べるのもアレだが、くだらないジョークが伝わる文化とは、豊かなものだと思うし、池辺晋一郎先生的なものが必要なのでは、とも思う。
コメント
コメントを投稿