荒木飛呂彦の絵がフランスのルーヴル美術館に展示された企画で制作された漫画『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』の日本語版が登場。いや~、これはやはり素晴らしいのではないでしょうか。荒木飛呂彦初のフルカラーコミックスということですが、印刷された紙質や大きなサイズは普段コミックスでばかり触れてしまう荒木飛呂彦の絵の魅力を違った形で提示しているように思われます。大きいことは良いことだ、と言ったのは作曲家の山本直純ですが、そうした価値観を直ちに受け入れたくなるような出来。17インチのテレビデオを、56インチのフルハイビジョンに買い換えたようにド迫力で絵が迫ってきます。ストーリーは、ルーヴルの地下を舞台にしたミステリー・ホラー(ちょっとコルタサルの短編小説にありそうな)で、その核心部分についてはやや大味なモノとなっているのにも関わらず、痺れるような魅力を放ちまくっているのは端的に絵が上手い、というだけではなく、コマの見せ方や動きの上手さといった漫画技術の巧みさの現れでしょう。濃密な時間の流れ方をする短編、という言い方が適切かもしれません。特にパリに着いた露伴先生が絵葉書を選んでいて、振り返ると(ここでページめくり)ルーヴルがドーン! 変なポーズ、ギャーン! という流れは最高過ぎて死ねます。大河ドラマ的な連載漫画も素晴らしいのですが、荒木先生にはもっと短編も描いてもらいたいなあ~、と改めて感じるのでした。短編を描く荒木飛呂彦と、連載を描く荒木飛呂彦とでふたりいれば良いのに。あとは愛蔵版コミックスのサイズで、ジョジョが出ないかな~、と思いました。大きなサイズで良い紙質で第五部を読み直したい。
昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。 「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。 これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。 もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。 もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...
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