会社の上司と「実はちゃんと聴いたことのないミュージシャンのライヴを観にいこう」ということになり、灰野敬二のバンド、静寂のライヴへ。これが文字通り魂消てしまうライヴだった。スタンディングのライヴでは久しぶりに深い感動を得られたし、自分はこういう音楽を聴くべきなのだ、という確信に至れるライヴ。素晴らしかったです。灰野敬二のライヴは学生時代に一度、サンヘドリン(だったと思う)のパフォーマンスを観ていたけれど、そのときは全くピンとこなかった。それが今回のライヴで開眼。
これまでこの手の音楽はみんな「情念がアンプからドロドロと流れてくるようなおどろおどろしい音楽」という固定観念があって敬して遠ざけてきましたが、灰野さんの表現はそうした固定観念とはまるで違っていて、どこまでも冷めているように思えた。ただそれは冷たい音楽というわけではなく、たぎった血がものすごい速度で血管のなかを通っているみたいに熱くて、自分はこういう音楽が好きだな~、と思いました。そこには状況に対する切実なメッセージも込められている。難解でも、攻撃的でもない言葉(あの場にいなかった人間に説明しようとすると一見陳腐に見えてしまうやさしい言葉でも、それは安易なモノではない)によって、その語りは編まれる。そこが猛烈に感動した。むき出しの感情、とでも言うのかな。灰野さんの言葉から発せられる強い精神に感染しそうな感じさえした。
それから驚いたのは灰野さんの身振りの軽さで、一楽儀光・ナスノミツルという他のメンバーの超重量級の演奏と比べると、彼の表現はまるで重力を感じさせないかのよう。ギターを《掻き鳴らす》という表現がぴったりなアクションは激しいが、それは武道や能の達人が型を披露するときの光景とも重なって見えた。達人的脱力だ。ペダルスティールギターや三味線、フルート、ブルースハープ、それから自分の声……さまざまに《楽器》を持ち替えながら奏でられる音は、音楽を超えた身体表現と化す。その表現はメインストリームの流れを組むものではないのだが、異形の人であり、アウトサイダーとして修練を積んできた結果、この地点に達した……みたいな凄みがある。
ある友人が「灰野敬二の音楽は0か1しかない」と言っていた。表面的には確かにそんな風に聴こえるかもしれない。沈黙とノイズのせめぎ合い。音がなっていないか、轟音がなっているか、というシンプルな世界観。でも、そうした聴き方は間違っている、と思った。この静寂というバンドにおいては、音がなっていない間にも、灰野敬二の表現が敷き詰められている。かつて武満徹は音を沈黙と測りあうものと考えた。そこでは沈黙に対立するものとして音が置かれる。しかし、灰野の表現では、沈黙のなかにも音が充満するのだ。このとてつもない轟音を奏でるバンドが静寂と名乗っているのは、単に皮肉なのではなくそうしたこととも関係するのかもしれない。
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終演後、感動した勢いで昨年発表されたアルバムを2枚購入(ライヴでは未発表音源のCD-Rもいただけた)。耳がキーンとなって高音域が聴こえにくくなっているのが治ったら聴きます。楽しみ。
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