世の中には読書家と呼ばれる人種がございます。私もそうしたタイプの人間を自認するもののひとりでありますが「では、なぜ、あなたはそうも読み続けるのか」という問いに対する答えは人によって千差万別だと思うのです。「単なる暇つぶしだよ」と答える人もあるかもしれませんし、また同語反復的に「そりゃ読書が好きだからさ」と答える人もあるかもしれません。そうした無数の声のなかには「読むために、読む」というものもあるでしょう。ボルヘスがおこなった連続講演がもとになってできたこの『七つの夜』という本を読みながら、私は自分のなかにあるそうした声を自覚しました。ここ数年の私の読書は、ボルヘスを読むための読書だったのでなかろうか、と。ボルヘスを読むために、セルバンテスを読み、あるいはラブレーを読み、またはダンテを読み、そしてアリストテレスやプラトンを読む(そのなかでラブレーを読むために、アリストテレスやプラトンを読む、という風に連鎖が生まれていきます)。そうしたある種の教養がなければ、ボルヘスが描く世界を味わい尽くすことはできないのです。一方でそれらの教養を身につけさえすれば、ボルヘスの語りは読者を今・ここにある世界から別な世界へと連れ去る導き手となるのです。そして、ボルヘスの声・語り口を訳文に反映させたというこの講演録もまた、ボルヘスを読むために読まれるべきテキストと言えるでしょう。秘密をこっそりと打ち明けるように「神曲」、「悪夢」、「千一夜物語」、「仏教」、「詩」、「カバラ」、「盲目」といったテーマについてボルヘスは語ります。それはテーマについての批評的な意味解説・教育的な内容であるだけではなく、ボルヘス自身の世界について語られたものに他ならない。現実にはあらぬ無限、時間の流れや感覚が、ボルヘスの作品では幻想的に提示されますが、それは単なる幻惑や驚異を喚起するファンタジーという意味ではなく、違う宇宙を体験させる神秘主義的なテキストなのです。講演録のテキストは、そうした彼のフィクションの性格を明らかにするものでありながら、フィクションと彼の講演やエッセイの地続き性も強く感じさせます。(ボルヘスの詩を私は読んだことがありませんが)ボルヘスはフィクションとエッセイなどでジャンル分けされて読まれるものではなく、ボルヘスのテキストは皆、ボルヘスとして読まれるべきものなのでしょう。
テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ
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