実家がある福島県(福島市)に帰って来ている。ここは今日本で最もホットな土地の一部。実家はいつもの通り穏やかで家の人も放射性物質が不安ではあるけれど、震災以降一週間ぐらいライフラインが止まった時の苦労話を笑い話のように語れるぐらいには余裕がある。近所には瓦が落ちて屋根にブルーシートがかけてある家(瓦不足と人手不足で修理ができないらしい)があり、道路に入った大きな亀裂は地震のすごさを物語っていた。
近所に住む91歳のおばあさんは、地震があってからコタツにあたりっぱなしで外にでてこなくなってしまったそうだ。地震の前はこのあたりでは一番元気なお年寄りで、働き者だったのに、と祖母は語る。一昨日は親戚の農家の方がウチに来ていた。祖父の従兄弟にあたるそのおじいさんは、良いものは全部東京に持っていかれて、福島には悪いものしか残らない。このあたりでは東京の悪口ばかりだ、とこぼしていた。苦笑するしかなかった。その軽い恨み口は、すっかり東京者になってしまった(と思われている)自分にも向けられているように思われたからだ。
地震は様々なことを変えてしまった、と思う。でも、これが新しい日常として成立しているのならば、それで過ごしてもらう他ない。クヨクヨしてもらっても地震以前の生活は戻ってこない。ただ、こんなの全然日常なんかじゃないよ、という現実を突きつけられることもある。車で出かけると機動隊の車が何台も走ってくるのとすれ違ったりする。彼らは近くにある有名な温泉街に泊まっている支援部隊で、朝津波の被害にあった相馬の方へと出かけ、夕方になるとまた戻ってくる。そうしたモノへ出くわすと、この土地の新しい日常のなかに再び非日常的なモノが顔を出して来たような気分になる。少なくとも、誰もこんな日常は望んでいなかった。
地震があった日に東北にいなかったのは父と私だけだった。仙台にいた弟は津波で死んでも不思議じゃない状態にいた。母は会社の机の下に隠れ、祖母は庭に裸足でかけていき植木を抱きかかえながら隣の家の瓦が次々に落ちていくのを眺めていた。3人はそれぞれ、あ、このまま死ぬのかなと思った、と言う。東京での震度5弱でさえあれだけ恐ろしかったのだから無理もない。でも本当に大変だったのはそれからのことだ。医薬品の卸売会社に勤めている母は、各地の病院からの注文で激務モードに陥り、一週間風呂にも入らず余震の不安に耐えながら働いていた。
そんな生活のなかで母は蜂蜜を買った。
ウチの近所には蜂蜜の専門店があった。いつ通りかかっても人が買い物をしている姿を見たことがないのに昔から潰れない不思議なお店だった。というか、そもそもウチの近所なんか果樹園と田んぼ以外は何にもない、コンビニも徒歩圏内というには遠いような不便なところなのに、何故、蜂蜜のお店が……というところから不思議だった。私が小学生のころにはたぶん存在していた店だから少なくとも20年は経営されているはずだ。地震があってからたまたまその店の前を通りかかった母は、このまま何かがあって死ぬかもしれないから、最後に高級な蜂蜜を買ってみるのも良いのかもしれない、と思ったらしい。そして初めてその店に足を踏み入れた。
母がその店で買った蜂蜜をパンに塗って食べながら、この話を聞いた私は、死を意識した人間は実に様々なことを思い付くものなのだな、と感心した。身内ながらユニークな発想だと思う――母だって本当は死ぬ前ぐらい最も好きなモノを食べたい! と思っていたのかもしれない。けれども、現実にはそのとき好きなモノが手に入るような状態がそこには存在しなかった。食料もガソリンも入手困難だったのだから。そのとき買えるモノがたまたま蜂蜜だったから買ってみた、というだけなのかもしれない。
でも、そういう状態じゃなかったら蜂蜜なんか買わないままだった、とも言える。地震がなかったら「やっぱり、高い蜂蜜は違うよね」とニコニコしながら蜂蜜を塗ったパンを食べる日はこなかったかもしれない。とてもささやかなことだけれども、これも地震以降の新しい日常のひとつ。こういう話から私は、何か安心をもらえるような気がした。
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