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ルイス・フロイス 『ヨーロッパ文化と日本文化』


ヨーロッパ文化と日本文化 (岩波文庫)
ルイス フロイス 岡田 章雄
岩波書店
売り上げランキング: 6624

ルイス・フロイスは日本のカトリック受容に関してとても重要な業績を残したポルトガル人イエズス会宣教師です。16世紀後半に来日した彼は、織田信長や豊臣秀吉にも謁見する機会を得たり、当時の日本の状況や歴史について詳細な記述をおこなうなど、日本史的にも重要人物。この『ヨーロッパ文化と日本文化』は彼が、ふたつのまったく異なる文化について比較をおこなった大変興味深い本でした。

フロイスの判断基準は、もちろんヨーロッパが軸となっていて「自分たちと違う日本人たちって、なんて変なのだろう!」という植民地主義感まるだしなのですが、彼が描く日本人の姿は当然ながら現在の我々とも大きく異なっている部分がたくさんある。現代の読み手にとっては、視線はむしろフロイスに近いところから読めるでしょう。そこからヨーロッパ文化の長い連続性を感じることもありますし(彼らのモラルや習慣が教会によって長い間守られてきたことを意識せざるを得ません)、日本文化がどこかの地点で断絶し、大きく変化して現代に至っていることに感じ入ってしまうのですね。

彼が描いた日本人の姿は、今現在言われてる「日本の伝統的な文化/価値観」が、なにか捏造されたものと感じさせもします。例えば、16世紀の日本の女性は性に奔放で、貞操を重んじることもなく、堕胎もし放題で、フロイスからすれば汚れに汚れきっている。大和撫子という価値観はどこにも存在していません。果たして日本の女性は大和撫子のイメージに沿うように、貞淑だったのはいつなのか。それは文化が変化してからのことだったのでは、と想像します。

服装や、食事、信仰や武器などさまざまなテーマにそって箇条書きみたいに書き進められていて、かなり細かく訳注がはいっているのもありがたいですね。大真面目に「我々は人差し指と親指で鼻くそをほじるけど、日本人は小指でほじる」など記述しているのも見逃せないポイント。

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