指揮:準・メルクル[2、4]
笙:宮田まゆみ[1、3]
ソプラノ:半田美和子[4]
メゾソプラノ:藤村実穂子[4]
東京音楽大学合唱団[4]
NHK交響楽団[2、4]
細川俊夫:この日演奏されたのは、笙のソロのための楽曲と、オーケストラのための楽曲がそれぞれ2曲ずつ。変型的なデコレーションが印象的な純白のドレスを着て、オペラシティのオルガンの前から笙を演奏した宮田まゆみの姿は、神祇の依り代をイメージさせ、笙の音量が曲が進むにつれてどんどん大きく聴こえていく感覚は、まるでイヤー・クリーニングのような体験でもあった。《光に満ちた息のように》も、《さくら》も雄弁な音楽、ではない。主張や主題を主張するよりも、むしろ、音楽的な何かを空間に馴染ませていく、その変化の境目が曖昧な音風景の変化から、聴者は音楽を探ることになる。散漫な耳では聴き取ることができない密やかな音楽、と言えるだろう。
[1]光に満ちた息のように ─ 笙のための(2002)
[2]夢を織る ─ オーケストラのための(2010)[日本初演]
[3]さくら ─ オットー・トーメック博士の80歳の誕生日に ─ 笙のための(2008)
[4]星のない夜 ─ 四季へのレクイエム ─ ソプラノ、メゾソプラノ、2人の語り手、混声合唱とオーケストラのための(2010)[日本初演]
そうした音楽観がオーケストラ作品にも通じているか、というとそうではない。
今回演奏された《夢を織る》と《星のない夜》はどちらも日本初演の大規模なオーケストラ作品だが、率直に聴いて感じたのは「これは外国人が書いた日本の音楽なのでは」ということだった。西洋の音楽手法を使いながら、日本古来の時間感覚や美の感覚を表現しよう、という細川のコンセプトは実は浅はかなのでは、とは細川俊夫ポートレートの感想にも書いたけれど、室内楽作品よりもオーケストラ作品のほうが強くその「浅さ」を危機的なものとして感じさせる。
どちらの曲も、風が草原を切っていくような音ではじまり、そこからウィンド・チャイム(グロッケンだったかもしれない)が、揺れて鳴ったように演奏される。風と風鈴のサウンドスケープは、印象的、だが、とても具体的に過ぎ、それはサルヴァトーレ・シャリーノの《海の音調への練習曲》を聴いたときの、具体的な描写の「美しい、し、印象的だった、で?」という感覚にも通ずる。日本人が描く日本的なものが、こんなもので大丈夫なの? というこのモヤモヤは、モギケン大先生が音楽や芸術を語っているときのモヤモヤにも近い。クオリア!
また《星のない夜》で選ばれたテキストについても問題に感じた。この作品では、ゲルショム・ショーレムやゲオルク・トラークルの詩とともに、ドレスデン爆撃と広島の原爆で生き残った少年・少女たちのテキストが用いられる。生き残った者の証言が用いられるのは《ヒロシマ・レクイエム》でも同様だが、ここではドレスデンの証言者の言葉は日本語で、広島の証言者の言葉はドイツ語で語られる。この《星のない夜》は、ドレスデンと広島というふたつの場所の生き残りのメッセージが交流される場にもなるのだ。しかし、ここでは《ヒロシマ・レクイエム》にも存在する、テキストの直接性、が問題となる。
もっとはっきり言えば、テキストがあまりに強すぎて、音楽が単なる背景にしか聴こえないのだ。とくにドレスデンの廃墟や数多くの怪我人、死体について語る部分は壮絶だが、ただ壮絶なイメージを煽るだけの効果音のようだった。はたして、凄惨さを直接的に伝えるテキストにこの音楽は必要だったのか? 私はそこを疑問に思ったのだ。
批判的なことを書き連ねてしまったが、どの作品もとても丁寧に書かれているし、音響の作り方にも優れた、繊細な音楽だ。すべてのプログラムが演奏され終わったあと、壇上にのぼった細川俊夫の姿を見て「小男には、小男にしか書けない音楽があるのでは」と思ってしまった。先日の細川俊夫ポートレートでは、ベルリンでのヘルムート・ラッヘンマン との交流の話がでたが、ステージにいた誰よりも小さく見えた細川と身長が2メートル近くありそうなラッヘンマンが並んで歩く光景を想像すると、それはとても奇妙な組み合わせに感じられるだろう。他者に認められやすい身体的な特徴はコンプレックスになりうる。実際に細川がどのように自分の外見について考えているかはわからないけれど「小男にしか書けない音楽」という形容は、その晩に演奏された音楽の印象とすごくよく馴染むような気がした。音楽の繊細さとと身体的な小ささの関係性、そして武満徹が自分の吃音について考えていたこと、吃音者の言葉、吃音者の音楽、について思い出しながら。
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