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村上春樹 『1973年のピンボール』



1973年のピンボール (講談社文庫)
村上 春樹
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自分を通り過ぎていった小説は数多い。それらは本棚には収まってはいるが、自分にはなにも残っていない。処分できないのは処分するのさえ面倒だったり、あるいは単なる物神崇拝か。村上春樹の初期の中編『1973年のピンボール』は、その逆をいく、自分のなかに留まっている小説のひとつだ。再読するのに手間がかからないのもあって、何度も繰り返し読んだ。当時の村上春樹の文体は、今よりもずっと無骨で、ザクリザクリとブツ切れている印象を受ける。「僕」と「鼠」というふたりの主人公の物語も、モンタージュのようだ。ふたりの物語は出逢うことはないく、また、ひょっとしたら物語と言えるほどの出来事さえ持たない。恐ろしいほど大したことがおこらない小説。

「僕」はかつて熱中したピンボールを探そうとする。「鼠」は今の状況からどうにかして脱出しようとする。そこでは過去への憧憬が憧憬でしかないこと、現在への留まれなさが象徴的に描かれているように思われる。これらは近代小説の大きなひとつのテーマに違いないのだが、何も起こらないなかで、それらが描かれているところに「青春小説」という看板を打ち付けられた本作が嘘を感じとれる。プルーストは憧憬と幻滅の反復で長大な物語を織り成し、ベンヤミンは憧憬と諦念をいくつものエッセイに書き留めたが、ここでの村上春樹は過去への憧憬ののちに、ほほえみをともにした別れを描いた。最初に本作を読んだとき、主人公たちは自分よりもずっと大人だったように思えた。しかし、気がつけば自分は主人公たちの年齢を追い越し、かつての自分と主人公たちを振り返る読者になっている。『何を見ても何かを思い出す』。たしかに。


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