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ホセ・ドノソ 『別荘』

別荘 (ロス・クラシコス)
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ホセ ドノソ
現代企画室
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以前にホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』を読んだとき、「これはまるで『読む危険ドラッグ』だなあ」と感嘆したのだけれど、『別荘』も同じように思った。ハッキリと時代はわからないが移動に馬車が用いられるぐらいに昔、原住民たちを金鉱山で働かせて作った金箔を売りさばき、巨万の富を築いたベントゥーラ一族が所有する別荘でのお話。設定がまずスゴくて。別荘を取り囲む荒野には、かつては食人の習慣があった原住民たちが住み、そして、いろいろ役に立つよ、と言われて盛んに植えられた、という空想の植物、グラミネア(実際は、ほとんど役に立たず、異常な繁殖力で周辺のほかの植物を絶滅させている)が生い茂っている。外界から隔離された空間としてこの別荘は設計されている。

この密室的空間は『夜のみだらな鳥』の登場人物、ドン・ヘロニモが息子のために作ったフリークス的ネヴァーランドを想起させるが、『別荘』でこの密室に配置されているのは、一癖も二癖もある33人のいとこ(かつては35人)と、一癖も二癖もある彼らの父母、そして一癖も二癖もある使用人たち……という感じであって、異様な空間に妙な人物たちが詰め込まれている点では共通している。で、話は、父母のグループ(一族に伝わる独自のルールで子供たちをガチガチに支配している)がハイキングにでかけるところからはじまる。

支配者がいなくなった別荘で、なにも起こらないわけがない。別荘では「この支配からの卒業」と言わんばかりに反乱じみた騒動が起こり、事態はなんだかよくわからない感じで大変なことになる。大人たちが別荘を離れたのはわずか1日、しかし、子供たちが残る別荘では1年の時間が経過しており、アインシュタインもびっくりな感じで時空が歪む。ん〜、マジックリアリズム。最終的にストーリーはかなり破滅的な終わり方をするのだが、落日のベントゥーラ家にとどめを刺すのは、一家から出た裏切り者と外国人……というところに、カルロス・フエンテスのような自国に対する批判的なまなざしを読み取ることができる。

作者が前面に出てきて「この小説は、フィクションですんで……」云々と自説を開陳したり、登場人物と作者自身が会話したり……とポストモダニズム(笑)なところもあって「む、めんどくせー小説か?」と思わせる部分もあるのだが(登場人物も多いし)、500ページを超えるヴォリューム以外は、読みにくいところはほとんどない。というか、これでもか、これでもか、と怒涛のように押し寄せる過剰な表現がグイグイと読者を引っ張って行って離さないだろう。「よくもまぁ、こんなヒドいことを思いつくな!」と拍手したくなるドノソのグロテスクな想像力も圧倒的だった。ガルシア=マルケスがスーパーマンなら、ドノソはバットマンかな……。

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