スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

10月, 2011の投稿を表示しています

イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #12

Giordano Bruno and the Hermetic Tradition (Routledge Classics) posted with amazlet at 11.08.12 Frances Yates Routledge 売り上げランキング: 36713 Amazon.co.jp で詳細を見る 今回は第9章「反魔術 (1)神学的問題 (2)人文主義的伝統(Against Magic (1) Theological Objections (2) The Humanist Tradition)」を見ていきます。前回までは主にルネサンスにおける魔術リヴァイヴァルにどういった背景でおこったかを探っていましたが、16世紀になると魔術に対する警鐘も高まっていったのですね。アグリッパも天使と悪魔を呼び出す大魔術師と言われたり、ピコの甥であったジョヴァンニ・フランチェスコ・ピコは古代神学を異教の偶像崇拝だとし、叔父やフィチーノの魔術を否定しています。反魔術の勢いはカトリックからもプロテスタントからもあがっていたそうです。ローマ教皇、アレクサンドル6世は魔術に寛容で異端審問に引っかかっていたピコを解放するなどしていましたが、彼の考えはまったく支持されていなかったのですね。ここまでが神学的な問題、として整理された反魔術です。 次にイェイツは「人文主義的伝統」の流れでおこる反魔術について整理しています。ここでの人文主義的伝統、という言葉を、ペトラルカを嚆矢として、ラテン語の古典を発掘するムーヴメント、という風に定義します。これは14世紀に始まって15世紀まで続き、15世紀に入ってからのギリシャ語再評価の礎を作ります。イェイツはルネサンスの文芸復興運動を、ラテン語編とギリシャ語編でふたつに分けて考えているのです。 このふたつのムーヴメントは性格からしても違います。ラテン語文献の人文主義者は、年代学にも正確でしたし、文献にも忠実、ペトラルカはすでに高度な文献学的マナーを身につけた人物でした。フィチーノが古代神学のテキストを鵜呑みにしていたのとは、えらい違いです。このふたつはその関心領域も違っている、とイェイツは言います。ラテン語のほうは文学や歴史を主に取り扱い、レトリックや優れた文学に重きを置きました。ギリシャ語のほうは哲学や神学、その他の科学に関心があったようです。前者は

『Newton』 12月号:相対性理論、むずかしい! ボリビアの超美麗写真がヤバい!

Newton (ニュートン) 2011年 12月号 [雑誌] posted with amazlet at 11.10.29 ニュートンプレス (2011-10-26) Amazon.co.jp で詳細を見る ニュートリノが光速を超えた!? というニュースが、実は時計の同期に誤りがあったことが理由なのでは? *1 などとも言われ、現時点でも検証が続けられている非常にホットなタイミングで、今月の『ニュートン』第1特集は「光速c 相対性理論の基本原理」。科学者たちはどのようにして光速を導きだそうとしたのか、そもそも光をどのように捉えてきたのか、という歴史的な確認から、最新の量子重力理論の紹介までかなりハードコアな内容となっています。光速度不変の原理についての詳細な説明がありますが、やっぱり難しくて、こういう現実には確認できないものを想像しながら研究している科学者ってすげーな……と思います。前半の科学史的な部分は光の速度の計測について、昔の人がものすごい力技で速度を計ろうとしたことがわかり面白かったですね。マクスウェルや、マイケルソン・モーリーの実験なども出てきて、ピンチョン・ファン的にも見逃せない。 それに劣らず「天を映す鏡 ウユニ塩原」の写真特集もすごい記事です。アンデス高地のウユニ塩原は雨期で冠水し、水深などの条件が揃うと、そこに溜まった水が全天を反射してものすごい幻想的な風景が観られる。この特集はそれを写真に収めたものです。文章ではその驚異の光景をお伝えすることはできませんが、これは度肝を抜かれます。現実がCGを超えて存在している、といってもよく感動的な記事。これに続く「仏教の聖地五台山」も良い写真が揃っていて、地球にはいろんなところがあるのねえ……とただただ呆然としてしまう。第1特集がかなりハードコアだったので、こうした写真で頭のなかで燻っている「むずかしい……」というモヤモヤをリフレッシュすることができるかもしれません。 今月は「乗り物の最新テクノロジー」という新しいシリーズが始まっており、初回は話題の最新ジェット機、ボーイング787の「解剖記事」でした。これもすごい面白くて、乗ってみたい! これでヨーロッパいきたい! と刺激を受けました。ヘッドアップ・ディスプレイやカーボンファイバーが未来っぽくて素敵。最新科学ニュースでは、ヤリイカの面白い生態(交

内田光子 & ハーゲン・クァルテット @サントリーホール 大ホール

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調 op. 130「大フーガ付」 シューマン:ピアノ五重奏曲 変ホ長調 op. 44 ハーゲン・クァルテットも気がつけば結成30周年。ヴィオラのヴェロニカ・ハーゲンの容姿がいつまでもお美しくいらっしゃるので(ファースト・ヴァイオリンのルーカスや、チェロのクレメンスと同じ遺伝子を持っているとは思えない)なんだかいつまでも若手のイメージを持ってしまう。1981年に結成当初、メンバーは全員10代後半だったのだから結成30周年でもアラフィフ、これはクラシックの世界だったらまだまだ「中堅」といった年齢であり、また「一番脂がのった時期」とも言える。彼らの溌剌とした瑞々しい音楽は以前から愛聴していたもので、この演奏のイメージがいつまでも若手のイメージとも接続されてしまうのだけれど、実演で聴くのが楽しみだった。しかも演奏されるのは、ベートーヴェンの晩年の傑作、弦楽四重奏曲第13番の初演稿というのだから期待も高まる。 1楽章ではファーストがかなりガツガツに攻めており、またハイポジが上手くとれていなかったので不安になったが2楽章以降は盤石な出来、といっても良かったと思う。なんだか実演を聴いてみて初めて、彼らの音楽の瑞々しい印象の多くがルーカス・ハーゲンの攻める姿勢、あるいは輝かしい音色によるものだったのかも、と気づけたような。ファースト以外は豊かな、落ち着いた歌い込みをしていることが多く、楽曲がそうなっているせいもあるのだが(終楽章以外)ファーストとそれ以外という対比がとても面白い。その対比が上手く馴染めるようになったのが、この日の演奏では2楽章以降だった、という。しかし、この楽曲の終楽章はやはりとんでもない楽曲であって、それまでの均衡が一旦すべてバラバラにされ、4つの楽器によるガチバトルが展開され、最も複雑な箇所では、何をやってるのかまったく分からない、でも、カッコ良くて、なんかスゴいことしか分からない、という様相を示していた……。聴取される音楽ではなく、書かれた音楽の極地。 内田光子も実演を聴くのが今回が初めて。上下黒のシャツ&パンツにゴールドの布をキャッツアイのようなスタイルで巻いて登場していて、まず思ったのが細い! ということ。驚異の還暦過ぎであり、あと20年は現役をやっていてもおかしくないだろう、普段何食って生活しているんですか、と

Nike Free Run +2:ベアフット・ランニングの元祖、とにかく軽くて履きやすい!

NIKE(ナイキ) ランニング シューズ FREE RUN +2 メンズ ドレンチェッドブルー posted with amazlet at 11.10.26 Amazon.co.jp で詳細を見る 9月のはじめぐらいから週一度のジム通いを再開。これまで室内トレーニング用のシューズは高校のとき体育館で履くように使っていたバレー・ボール用のシューズを使っていたのだけれども、さすがに買ってから10年近く経てばソールの接着剤もはがれてきて悲しいことになってしまったので、シューズを新調しました。ナイキのFREE RUN +2を買いました。このシリーズは「裸足のような履き心地で、自然に足を鍛えよう」的なコンセプトで開発されたシューズで、ランニング・シューズのように足の保護に加えてグリップやサポート機能を高めて走りやすくするのではなく、足の自由度を高めるような作りになっています。「RUN」というぐらいだから、外走り用っぽいんだけれど、スポーツ・ショップの店員さんに聞いたら「いえ、室内トレーニング用にも良いですよ」とのこと。 さっそく履いてジムに行ってみたところ、このシューズ、ソール部分には隠し包丁のように溝がたくさん入っていますが、ソール表面は結構のっぺりしているので、ジムのカーペット部分がひっかかったりもせず快適。なのでフローリングみたいなところでも大丈夫でしょう。で、とにかく軽いし、履いてて楽。ナイキなので足幅が狭く、普段より1cm大きなサイズ(ランニング・シューズよりは0.5cm大きなサイズ)を買いましたが、走る用途ならばつまさきに1cmぐらいの余裕があるくらいがベストなので、かえってちょうど良かったぐらい。このシューズ、面白いのはその構造で、通常のシューズみたいにベロがシューレースを通す部分と分離しているのではなく、靴全体がルーム・シューズみたいにすっぽりと足を包み、レースはその外側にあるゴムっぽい樹脂で締めるという作りになっています。踵の部分に固い「絶対踏まないでください!」と注意書きされているアレも入ってない。オフィス用のルーム・シューズにも転用できそうなぐらい柔らかい履き心地。実際、海外では室内履としても人気だとか。カラーリングもシリコンバレー感あります。 軽めにルームランナーにて3キロほど走ってみましたが、ランニング用シューズ(アシックスのGT2140)で走

読売日本交響楽団 第508回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

指揮:下野竜也(読売日響正指揮者) 能管・篠笛:一噌幸弘 ソプラノ:天羽明惠 ジョン・アダムス/ドクター・アトミック・シンフォニー(日本初演) 團伊玖磨/交響曲 第6番〈広島〉 下野竜也の指揮による原爆をテーマにした2つのシンフォニーを取り上げるプログラム。開演まえのプレトークによればプログラムは2年前に決定されていた、というが、今年我々の社会に訪れた状況を考えると、奇妙な偶然、あるいは不気味な運命としか言い様がない。地震があって、原発がどうにもならん、いかんともしがたい、という混乱した状況下でおこなわれた4月のサントリー定期のときも「10月のプログラム、タイムリー過ぎるな……」と思ったものだ。ジョン・アダムスの作品も、團伊玖磨の作品も聴くのは今回が初めて。下野 × 読響の組み合わせは当たり外れが大きく、良かったときよりも残念に思う演奏会が多い。もちろんこれは個人的な印象であり、感想だが、客演指揮者や音楽監督が充実しすぎているために「正指揮者」が霞んでみえてしまっている、というのが現状である。マニアックな曲目ということで、空席も目立った。 ジョン・アダムスは、ポスト・ミニマル世代の旗手として活躍し、ロックやジャズといった音楽の要素を取り入れた越境的な作曲家として人気が高い、が「これはライヒとどうちがうのだろうか……」と思ってよくわからない作曲家であり、また近年は新ロマン主義的な作品もあったり、代表作のひとつ《中国のニクソン》もゲテモノ的な趣味にしか思えず「映画音楽の人が何故かゲージツ家と勘違いされているのではないか」などとひどい言葉を投げつけたくなるのだが、今回の日本初演作品を聴いてもネガティヴな印象は払拭できず、むしろ上塗りされてしまったよう。新ロマン派風の大仰な管弦楽作品、という端的な一言によって、自分のなかで無かったことにしてしまいたくなる楽曲だった。各楽器のソロはどれも素晴らしく、金管楽器が大活躍するなかで、特にチューバの豊かな音色が印象に残ったが(あまりチューバのソロってないじゃないですか)、作品は退屈そのもの。 休憩中、どうしてあれほどまでに退屈だったのか、について考えると「オーケストレーションが上手くないせいじゃないか」と思い当たる。なんかいろいろと細かい奏法をやらせていても、ごちゃごちゃしていてよく聴こえない、という状況は、振り返ったら「ソロのメロデ

イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #11

Giordano Bruno and the Hermetic Tradition (Routledge Classics) posted with amazlet at 11.08.12 Frances Yates Routledge 売り上げランキング: 36713 Amazon.co.jp で詳細を見る 今回は第8章「ルネサンスの魔術と科学(Renaissance Magic and Science)」について見ていきます。前回まではずっと魔術についてのお話が続いていましたが、ここでは科学にフォーカスが当てられてくる。章の後半では天動説から地動説へという転換がどのような背景でおこなわれたかについて触れられるのですが、イェイツはまず天動説時代の図像をとりあげます。ここで登場するのが、ロバート・フラッドによる世界図です。絵の中心には猿がいて、その周りには物質世界がある。その外側には星々の世界があって、猿はそれらを代表する女神と鎖によって結ばれています。さらにその外側には動かない星々と天使たちがいる。ここにもアグリッパが採用したような三層構造の世界が現れている。イェイツが注目するのは、女神と猿をつなぐ鎖です。星々とリンクすることで猿は力を得て賢くなる、これがつまり、魔術の力で賢くなった人間の暗示である、とイェイツは言います。 イェイツはもうひとつ面白い例をここで紹介しています。それはヨハネス・トリテミウスという15世紀後半~16世紀初頭のドイツ人が書いた『ステガノグラフィア(Steganographia)』という本についてです(IT技術について詳しい方はここでそれって「ステガノグラフィー」のこと? とピンとくるかもしれません)。この本でトリテミウスは暗号や秘密のコードを使ってメッセージをやりとりする方法について書いているそうです。彼は世界を秩序づける要素として天使を想定しています。そして、これらの天使たちの繋がりを利用すれば、距離が離れた相手にもメッセージを届けることができる、という一種のテレパシー技術について彼は述べるのです。この技術、とても複雑な計算によっておこなわているんだとか。これまででてきた魔術とはちょっと違ってますよね。 魔術から科学へ、という歴史の流れがあるとしたら、これまでにみてきた魔術の護符や、カバラにおける天使の名前といったものが実践的な応用科

岸本佐知子 『ねにもつタイプ』:言葉遊びと想像の迷宮へ

ねにもつタイプ (ちくま文庫) posted with amazlet at 11.10.21 岸本 佐知子 筑摩書房 売り上げランキング: 122702 Amazon.co.jp で詳細を見る 社会、に生きる人間として我々は日常的に言語を操り、文字を書いて暮らしている、その様子はごく自然なものであって、たとえばある対象と意味の関係は、その対象にもともと備わっている本性から自明的に発生するかのように振る舞う。しかし、一度立ち止まって考えれば、どうしてその対象とその言葉が結びついているのか、その理由はとても曖昧なもので、立ち止まってしまった瞬間に関係が崩れてしまうこともあるだろう。一義的に捉えられるはずの意味も実は多義的に意味されることもあるはずで、言語とはとても緩やかな規則によって成立している。緩やかな規則がなければ、暗喩は生きないだろう。 本書の面白いのはこうした意味の曖昧さや、意味のゆるやかさを前にして、そこでいちいち立ち止まって考えている点にあると思う。そこは筆者の翻訳家としての習性か、あるいはもともとそうした性格に生まれついてのことなのか。たとえば、筆者はこんな風に綴っている。 赤ん坊。よく考えると不気味な言葉だ。 もしも自分が意味を知らずに「赤ん坊」という言葉と出会ったら、どんなものを想像するだろうか。 よくわからないが、たぶん何らかの生き物なのだろう。全身んが真っ赤でてらてらしている。入道のように毛のない頭から湯気を立てている。夜行性で「シャーッ」と鳴く。凶暴な性格で、小動物や人を捕らえて生で食らう。後ろ足で立ち上がると体長十五メートルほど、大きいもので五十メートルにもなる。 荒唐無稽といっても言い、言葉に対するイメージの貼り付けだ。本来の意味から自由に逸脱した遊びがここにはある。この想像(というか妄想)は、深く迷宮的に連なっていき、ページが尽きるまで続いていく。読み手はよくこんなことまで思いつくな、と笑いながら感心するしかない。言葉とイメージの遊びが創造の源泉になっていることを意識させてくれる。

掌田津耶乃 『新人プログラマのためのGoogle App Engineクラウド・アプリケーション開発講座 JAVA PYTHON対応』

新人プログラマのためのGoogle App Engineクラウド・アプリケーション開発講座―JAVA PYTHON対応 posted with amazlet at 11.10.18 掌田 津耶乃 ラトルズ 売り上げランキング: 213991 Amazon.co.jp で詳細を見る また少しまとまって勉強できそうな時間がとれたのでGAEを使ってアプリケーションを作ったりしていたのですが、手元にリファレンス本的なものが欲しいなあ~、と思って購入しました。しっかし、GAEの解説書ってホントJava向けのものばっかりで、Python向けのものって全然ないんですね。この本もJavaとPythonの両方を紹介していて、私はJavaについてはまったく勉強してないので、正直無駄。Pythonだけだとこういう場合、商売にしづらいのかなあ。買う決め手になったのは、GAEで標準サポートしているDjangoについての紹介がされていたことでした。これがWEBフレームワークというものに触れる初の機会になって「こんな便利なものがあるのか~」と思って、今はDjangoのチュートリアルを紐解いたりしてます。 こうした入り口を作る本としては良いのですが、なにしろ「新人プログラマのための」とあるぐらいですから内容は薄い。しかもJavaの部分は(私にとっては)無駄。そして2800円ぐらいする。この3点によりおすすめできる人が限られてくるところです。タイトルどおり、新人プログラマー、あるいはホスト・コンピューターでの開発を15年ぐらいやってきて「最新の技術動向でもちょっとかじってみようかなあ、クラウドって最近話題だしさあ」と思い立った中年など向けでしょうか。ぶっちゃけ、ホスト開発15年経験がまったくない単なる中年の人でもGAEによる開発については一通り学べる本ではあります。が、その程度。データストアのインデックスについてまったく触れられてなかったりと問題点は多すぎ、これを参考書に本格的な開発をやろうとしたら速攻でつまづきます。 でも、すごいですよねえ。これを片手に作業すれば、なにがしかのアプリケーションがWEBにアップできて公開できちゃう世の中。これを読みながらhtmlを手打ちしてて、中学生のときにFTP使ってビュッとサーバーにhtmlファイルを置いてホームページを更新してたことを思い出しました。当時手

イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #10

Giordano Bruno and the Hermetic Tradition (Routledge Classics) posted with amazlet at 11.08.12 Frances Yates Routledge 売り上げランキング: 36713 Amazon.co.jp で詳細を見る 今回は第7章「コルネリウス・アグリッパのルネサンス魔術の概観(Cornelius Agrippa's Survey of Renaissance Magic)」を見ていきましょう。「ネッテスハイムのアグリッパ」として知られるこの魔術師の業績は、その名もズバリ『オカルト哲学』というタイトルの著作が最も知られているところでしょう(これ、邦訳が出てるんですけど、高価でねえ……でも邦訳が出てるっていう事実がすごい)。しかし、イェイツはアグリッパについてこんな風に評価しています。「彼はルネサンスの最も重要な魔術師でもなければ、『オカルト哲学』も真の魔術書でもない」と。しかし、この『オカルト哲学』は出版当時(1533年)においてはルネサンス魔術の概観となる初めての著作でした。この章では『オカルト哲学』からジョルダーノ・ブルーノを理解するために役だつポイントがまとめられています。 アグリッパの世界観とは前の章で述べられた「3つの世界」のモデルです。世界は、地上、天(celestial)、天上(supercelestialの訳語ってなんでしょうか? 天より高いところですから、さしあたって天上、としておきましょう)に分かれていて、高次の世界が低次の世界を支配している。これに対してアグリッパは、地上には薬と自然魔術が、天には占星術と数学が、天上には聖なる儀式的魔術の効果を設定します。全3巻にわたる『オカルト哲学』は、各巻がこのそれぞれを取り扱っており、1巻は自然魔術、2巻が占星魔術、3巻は儀式的魔術、という構成となっているそうです。 それでは第1巻のお話。アグリッパはここでフィチーノの『天によって与えられる生について(De vita coelitus comparanda)』を引用しています。悪いことが起きる原因は、星々とそれらの図像によるものだ。すべてのものが天の図像と通じてるのだ、というこの理屈については、フィチーノの自然魔術について取り扱った章をご覧ください。アグ

アポロドーロス 『ギリシア神話』:本当はこわいギリシア神話

ギリシア神話 (岩波文庫) posted with amazlet at 11.10.17 アポロドーロス 岩波書店 売り上げランキング: 25958 Amazon.co.jp で詳細を見る アポロドーロスは紀元1世紀とか2世紀にいたという著述家で、この『ギリシア神話(Bibliotheke)』は彼が収集したギリシア神話をまとめたものだそう。なんでも現代に広く伝わっているギリシア神話とはヘレニズム文化の影響で、マイルドになってしまったそうで(これは井筒俊彦の『神秘哲学』 *1 でも指摘されていたかと思います)すが、アポロドーロスの本はヘレニズム以前のワイルドなギリシア神話が収められているのだそうです。彼が生きた時代はローマ時代の全盛期。にも関わらず、ここにはローマの文化も見当たらない。それは著者がこの本を正真正銘のギリシア文学を後世に伝える参考書となるように書いたからだ、と言います。ホメロスやヘシオドスへの言及もあり、単なる読み物というよりかは「ギリシア神話研究書」に近いのかもしれません。ページをめくっていくと目につくのは、ギリシアの神々の交接、強姦、殺戮、不倫、戦争、虐待ばかりが描かれており、ギリシア文化がヘレニズムと出会わなければ教育委員会が眉をしかめる結果となったことは火をみるより明らかでしょう。美しい女に出会えば、それが人妻だろうとなんだろうと犯して孕ませてしまう神々の性格はとてもではないがちょっと理解の範疇外にあるようにも思われ、古代ギリシア人はこのような暴力的な神話を語り伝えることで何を感じていたのか。神々の考えること、英雄の考えることは凡夫には計り知れないことでしょう。ほとんど狂気の沙汰の連続のなかから感じるのは、こうした神話が芸術的なインスピレーションの源泉なのだとしたら、やはり芸術家のセンスは霊的なもの、理性では理解することのできないものを受容してしまうのではないか、ということ。 *1 : 井筒俊彦『神秘哲学』を読む #1 - 「石版!」

Maria Rita/Elo:硬質なサウンドとヴォーカルの力強さがすげー良いです

Elo posted with amazlet at 11.10.16 Maria Rita Wea/Latina/Warner Music Latina (2011-11-29) 売り上げランキング: 49034 Amazon.co.jp で詳細を見る 日本に美空ひばりが、アメリカにはジャニス・ジョプリンが、ポルトガルにはアマリア・ロドリゲスがいるように様々な国にはそれぞれ「伝説的な女性歌手」が存在します。ブラジルのポップス界においては、エリス・レジーナがそのポジションに君臨していることに異論がある人は少ないかと思われます。マリア・ヒタはそのエリス・レジーナの娘であって *1 、MPBのサラブレットとして2004年にデビューすると「なんだ、ただの二世タレントじゃねえか」という悪評を受けることなく、いきなりバカ売れ、その後も出すアルバム、出すアルバムが絶賛を持って迎えられているミュージシャンです。伝説は一代限りで潰え、カリスマの形象は難しい傾向にあると思うのですが(ショーン・レノンがカルト的なポップス職人として評価されるみたいに)、マリア・ヒタは見事母親が立ったであろう頂点を掴んでしまっている。 4枚目のアルバムとなる最新作『Elo』(ポルトガル語で『絆』という意味だそう)も素晴らしかったです。硬質でジャジーなサウンドがカッコ良いことこのうえないのですけれど(演奏がめちゃくちゃ良い。ドラムがラテンっぽいリズム・フィギュアをころころと変化させながら、ピアノとポリリズムを編むようにして進んでいく間奏があったりして)、ここに力強いマリア・ヒタのヴォーカルがガッツリとツボにハマってしまうと鳥肌が止まらなくなってしまいます。しっとりと歌い上げている曲も、高音での声の伸び方がとても良いですよ……。 Amazonでの取り扱いは来月になっていますが、すでにディスクユニオンでは買えました。「2011年のMPB最重要作」というコピーが掲げられていて猛プッシュが甚だしいですね。今年はアドリアーナ・カルカニョットの新譜もあったしMPBの豊穣感が強いです。 *1 :ここで疑問に思うのは、なぜ。エリスは『レジーナ』なのに、マリアは『ヒタ』なのか、母が『レジーナ』なら娘は『リタ』、あるいは娘が『ヒタ』なら母も『ヘジーナ』と表記すべきなのでは!? しかも『ヒタ』という名前はムタンチスのヴ

パリへ #4

パリ4日目の旅日記。この日が観光できる最終日で、夜は絶対にちゃんとしたお店にいきたいよね、昼間は軽く済ませよう、なんならケーキだけとかにしておこう、という計画のもと行動開始。ふたたびルーブル周辺から歩いて「アンジェリカ」へと向かった。写真はその途中で見つけたお土産屋さんのショーウィンドウ。フランスの修学旅行生もパリにきてバタフライナイフやメリケンサックを買ったりするのだろうか。 ゴージャスな店内。 ミルフィーユを注文した。妻はモンブランを注文(有名なんだって)。 この写真だとミルフィーユの巨大さが分かるだろうか。日本で出てくるミルフィーユのおよそ2倍はあろうかというサイズであって、美味しいのだけれどもさすがに後半がつらい。しかも、飲み物にカフェ・ド・クレームを選択しており、クリーム対クリームがさらに苦しい。でも、美味しいんだよ。 食後は歩いてオペラ・ガルニエへ。 ゴージャスの極みな建物でびっくりしてしまうが、この日はリハーサルのため客席内の見物はできず(ホールの天上にはシャガールの絵が描かれている)。残念……でも、せっかく来たし、と入場することに。題目は忘れてしまったけれど、バレエの公演が2日後にはじまるとかで、ホールの入場ドアについていた覗き窓からリハーサル模様が少しだけ見れたのはちょっと面白かった。 ヴェルサイユ宮殿の鏡の間にひけをとらない豪奢さ。屋上で育てられている蜂のハチミツはお土産屋さんには売っていませんでした。ただ、オペラのDVDなどは結構充実していた。 その後、歩いてギャルリー・ラファイエットに向かう途中で発見したアップル・ストア。シックすぎてお葬式のように見える(このとき、ジョブズはまだ生きていました)。 ギャルリー・ラファイエットの本館、これもゴージャスすぎて笑う。ここでお土産を買いました。食品館がとても楽しかった。その場で飲みながらお惣菜を食べたりできる。毎年、サロン・デュ・ショコラで見かけるTropical pyramidが日本で買うより安かったので、会社の仲の良い人たちと食べるように購入。いろんなカカオの産地のチョコレートが一枚ずつ入ったアソートで、ホントに産地によって全然味が違うので面白かったです。 あと、奥さんがエルメスの食器を見たがっていたんですが、ギャルリー・ラファイエットのなかのエルメスには食器類はなく、店員に聞くと「ここにはないの

Hilary Hahn & Valentina Lisitsa/Ives: Four Sonatas:アメリカの実験音楽のパイオニアがアウトサイダー・ミュージックだったことを明かす楽曲群

Four Sonatas posted with amazlet at 11.10.14 C. Ives Deutsche Grammophon (2011-10-11) 売り上げランキング: 46 Amazon.co.jp で詳細を見る チャールズ・アイヴズという作曲家については以前からこのブログで取り上げております。詳細は例のごとくWikipediaにおまかせするとして、ここではかいつまんだ形でご紹介しておきましょう。コネティカット州生まれのアイヴズは20世紀前半のアメリカで活動していた作曲家……といっても、彼は専業の作曲家ではなく、保険会社の副社長を勤めて社会的に成功を収め、余暇に楽曲を書いていた、という大変ユニークな経歴を持っています。彼は生涯に1900曲以上の作品を書いたと言われており、精力的な余暇活動な取り組みっぷりが伝わってくるのですが、演奏者の都合など考えずに好き勝手に書きまくっていたおかげで生きている間はほとんど楽壇から無視され、晩年になってようやく注目を浴びはじめることとなりました。今日においてはバーンスタインやティルソン=トーマスによる演奏でかなり知られた存在ですが、交響曲第4番の破天荒な響き、合唱まで動員した巨大さ、民謡や讃美歌の引用で織り成された複雑さに触れれば、その音楽のものすごさ、というか、ものすごいアウトサイダーっぷり(実際、楽壇的にはアウトサイダーだったわけですが)に動揺してしまうでしょう。しかも本人は楽壇からの評価を強く求めていた、というのだから面白い。アルバート・アイラーとオーネット・コールマンと美狂乱のギターの人の性格と社会性が混ざったような作曲家であった、と言ってみても良いかもしれない。正直な話、アイヴズとアイラーは「アメリカの音楽」を考えるうえで外してはならない音楽家だと思います。 かいつまんで、と言ったのに思いがけず長くなってしまいました。アメリカのヴァイオリニスト、ヒラリー・ハーンの新譜はこのどう捉えて良いのかわからない、真面目にふざけているのではないか(笑いながら怒っている竹中直人のように)とも思えるアイヴズのヴァイオリン・ソナタを取り上げています。ハーンがアイヴズのソナタをコンサートのプログラムに組み込んでいるのはかなり前から聞いていて「いつ録音が出るのかな」と期待していたのがやっと出た、という感じ。ライナー・ノ

荒俣宏 『決戦下のユートピア』:苦境のなかにも文化あり、戦争のイメージに生活の色を加える名著

決戦下のユートピア (文春文庫) posted with amazlet at 11.10.14 荒俣 宏 文藝春秋 売り上げランキング: 119039 Amazon.co.jp で詳細を見る 「戦争はツラい」、「戦争は悪だ」、「戦争は厳しい」という教育を子どものころから我々は受け続けている。それの良し悪しを問うわけではない。けれども、ときどき思うのは戦争下の社会のイメージはあまりにも第二次世界大戦末期の困窮と終末感と結びつきすぎているのでは、ということだ。かのクラウセヴィッツは『戦争論』において「総力戦」という国家が一丸となって戦争という事業に取り組むコンセプトを提出した。我々を支配する戦争のイメージはこの総力戦のイメージと重なるだろう。だが、それが本当に適用されるのはふたつの世界大戦だけであって実はそれは特殊なイメージだったのでは、と思うのだ。特に3月に地震が起きてからの生活に戦争のメタファーが用いられるようになると、イラクで戦争をやっていたアメリカの生活というのもこういう感じだったのでは、と想像してしまう。国が戦争をやっていても日常はあるし、文化もある。戦争をやっているからといって、すべてが例外におかれ、生活が一変してしまうわけではない(もちろん一変してしまう人もいる)。 荒俣宏の『決戦下のユートピア』は、第二次世界大戦中の日本における文化や生活にフォーカスを当てた歴史読み物だ。荒俣は高見順や永井荷風が書き残した日記や、当時の婦人雑誌から、戦争イクナイ!教育からは伺いしれない生活の模様を描こうとする。 例えば、ファッションの面では銃後の女性は何を着るべきか、について巻き起こった論争が取り上げられている。動きやすく、さらに使用する布地が少なくて済み、かつ、女性の美意識を満たす衣服とはなにか? 「もんぺ」は古くから日本に存在していたものだったが、こうした要求によって注目を浴びるようになった、と荒俣はまとめる。しかし、これもやはり人気がなく(もんぺは上着を和服にすると裾を巻き上げなくてはならず、腰のあたりに膨らみができてみっともなくなる。このため、もんぺを着るときは上着はシャツやブラウスのほうがキレイに着こなせる、という不思議な衣服だった。そもそも、農耕服みたいなものなので都会の女性には敬遠されていた、という)「標準服」という服を仕立てるときはこういうものにしなさ

The Smiths/Complete:太くなった音、よりもミニチュア感溢れる細かい作りがコレクターズ・アイテムっぽい

Complete posted with amazlet at 11.10.12 The Smiths Wea/Rhino (2011-10-01) 売り上げランキング: 160 Amazon.co.jp で詳細を見る リマスター(しかも、ジョニー・マー監修による)されて再発! と言っても、これまで別に入手困難な音源があったわけではなく、っつーか、ちょっと前にスミスの紙ジャケって出てなかったっけ? と思わなくもないですが、シングル集などの編集盤やライヴ盤などを含めて8枚組、5000円ぐらい!(現在のAmazon価格、私が購入時は4000円強でした)という強烈なお値打ち感には勝てないでしょう。「だいたい持ってるけど、あのアルバムとあのアルバムは持ってなかったな~。え~い、買っちゃうか!」と踏ん切りがつく絶妙なライン、っていうか、安過ぎだろう、すごい時代でございます。まだスミスを聴いたことがない大学生でも、くっだらない女の子との飲み会を一度ぐらい我慢すれば、あなたの手元にスミスのアルバムがリマスターされた音でコンプリートされてしまうのです。すごい時代でございます。 音、ですが、これも先日のピンク・フロイドのリマスター再発と傾向は同じ。特別気になったのはスネアの音の変化で、私が持っていた旧盤ですと全体的に痩せた感じはあるのですが、オノマトペで表せば「ジャッ」と鳴ってるのが、今回のバージョンだと「トッ」と鳴っている、感じ。後者のオノマトペの母音を強めて発音すると一層伝わると思いますが、文章だけだと何を言っているんだろうか、コイツは、というお話なので、たった一言で言うと「鳴りが豊かになってますよ」ということです。この効果はヘッドフォンで聴くとさらに実感できるのでしょう。 ボックスセットに入っているのはすべて紙ジャケ。これがインナースリーヴも再現されててなかなか精巧な作り(歌詞もすべてインナースリーヴへの印刷、なので若干読みにくい)。おそらくアルバムがリリースされた当時の「ポスター封入」とか「シングルヒット曲○○収録!」などのコピーが書かれたシール(もちろん英語です)まで作られてて面白い。オリジナルLPのミニチュアを制作した感じがコレクターズ・アイテム性を高めているように思いました。 リアルタイムに聴いていたわけではないですが、痛い思い出が甦ることなしには聴けないバンド、なわ

イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #9

Giordano Bruno and the Hermetic Tradition (Routledge Classics) posted with amazlet at 11.08.12 Frances Yates Routledge 売り上げランキング: 36713 Amazon.co.jp で詳細を見る 今回は第6章「偽ディオニシウスとキリスト教魔術の神学(Pseudo-Dionysius and the Theology of a Christian Magus)」を見ていきましょう。前回、早世した天才、ピコの業績について触れた章はヴォリューム的に、内容的にも盛りだくさんでしかもラテン語部分の翻訳まで試みる、という重さだったので、この章の短さは助かりました。ここで登場する偽ディオニシウスは何者だったのか。その詳細はWikipediaに記載がありますので、ここでは簡単にしか触れませんが、偽ディオニシウスは自称「アレオパギタの聖ディオニシウス」であり、9つの天使の階級について唱えています。「偽」というのはこの「自称」の部分であって、偽ディオニシウス自体は5世紀ごろの人物なのに1世紀ごろにアテネでパウロと会った人物だとして執筆をおこなっていた、ということです。例によって昔の人は、こうした騙りを疑わず、彼の天使の階級説はトマス・アクィナスなどの神学者たちに受け入れられ、キリスト教神学のオーソドックスな部分として受容されます。そして偽ディオニシウスの説はルネサンスの魔術にも多大な影響を及ぼした、とイェイツは言います。フィチーノもプラトン主義とキリスト教の教義を統合させる著作において偽ディオニシウスへ言及をおこなっている、とのこと。 後世の新プラトン主義者たちが影響を受けた偽ディオニシウスの著作『天上位階論』にはこんなことが書いてあるそうです。9つの天使たちはそれぞれ3人(天使の場合《人》という数え方が適切なのか……)ずつ1組になって、そのグループはそれぞれ三位一体の位格を表し、さらにこれらの天使たちは天球を超えたところにある、と。ディオニシウスの説は厳密に言えば宇宙論的な宗教ではありませんでしたが、イェイツはこれらの説にグノーシス主義的なものを認めます。そしてそこにはヘルメス主義的な影響も存在している、というのです。フィチーノはこの階級説を『キリスト教について(De

尹伊桑/ルイーゼ・リンザー『傷ついた龍 一作曲家の人生と作品についての対話』:となりの国の大作曲家を生んだ文化とは

傷ついた龍―一作曲家の人生と作品についての対話 posted with amazlet at 11.10.10 尹 伊桑 ルイーゼ・リンザー 未来社 売り上げランキング: 740051 Amazon.co.jp で詳細を見る 日本占領下の朝鮮に生まれ、激動の半島の歴史に揉まれながらもベルリンで作曲活動を続けた韓国の作曲家、尹伊桑の名は日本の音楽ファンのあいだでどの程度知られたものか。作品についてよりも第二次世界大戦中に反日武装地下組織に参加し逮捕され拷問を受けたことや、1967年当時の韓国政府によって北朝鮮のスパイ容疑をかけられ、やはり拷問のすえに終身刑の宣告を受けたというエピソードのほうが知られているだろうか。ドイツの作家、ルイーゼ・リンザーと尹伊桑との対話によって編まれた本書にはこうした痛ましい記録も数多く収録されている。それは『傷ついた龍』というタイトルからも伺えるところだろう。ルイーゼ・リンザー(彼女はカール・オルフの妻でもあった)のインタビュアーとしての態度はとても社会主義的で、かつ、ポスト・コロニアルまるだしであるため、こうした音楽とはあまり関係ない部分に分量が割かれがちであるのだが、アジアを代表する作曲家でもあり、現代の日本人作曲家を数多く育てた尹伊桑の業績にスポットをあてる貴重な本だと言えよう。 尹伊桑が生まれたのは1917年。彼の家は両班の家系だったが、父親は定職を持たず(要職は占領者であった日本人によって締められており、公職につくことのできなかった尹伊桑の父親は『商人などは卑しい職業である』という文化的な背景から富める職業につくことができなかった、とか)は、受け継がれた土地を切り売りして生活する、言ってみれば没落貴族のようなものであったらしい。朝鮮の土地ではもともと漢詩が最も重要な教養とされ、当初、尹伊桑も中国文化を伝える学校へと通わされた、という。それが途中で日本によってもたらされた西洋式の学校へと通わされることとなり、そこで初めて西洋式の音楽に触れことで音楽へと目覚めることとなる。こうした《目覚め》のエピソードは、西洋以外で西洋音楽に取り組んだ国の作曲家にとってはそう珍しいものではないだろう。武満徹にとってのシャンソンのように。しかし、興味深いのは尹伊桑が育った当時の朝鮮の文化の様相である。朝鮮の文化と中国の文化が混合した状況下に、日本が侵

野口晴哉 『整体入門』:独自の生命論にもとづく身体の解説が面白い

整体入門 (ちくま文庫) posted with amazlet at 11.10.08 野口 晴哉 筑摩書房 売り上げランキング: 8634 Amazon.co.jp で詳細を見る 肩こりなどはシステムエンジニアの職業病というよりもオフィスに勤める人全般を悩ませる現代病、と言えましょう。私も極度の肩こり持ちなもので先日ついに近所の整体にいってみてみました、ものは試しに、と。で、これが上手いこと効いちゃったわけで久しぶりに体の軽さを感じる結果となりました。とはいえ、肩こりが永続的に解消されたわけではなく、術後1ヶ月もすれば「あ、いまちょっと疲れが溜まってきたなあ」という感じがしてくる。しかし、術前は肩が常に重かった・痛かったわけなので、この疲れが溜まってくる感じすらも新鮮。様子をみて通ってみようかな、整体すげーな、と思いました。 というわけで野口晴哉の『整体入門』を読んでみる。読んでから知ったのだが、整体にも種類や流派がいろいろあるそうで、私の行っているクリニックとはほとんど野口整体は無関係の模様。ただし「ゆるめて・ほぐす」などの過剰や不足を調整していくというコンセプトは共通しているみたいで、大変興味深く読みました。クラシックの熱狂的ファンで、日本発の天才ヴァイオリニスト養成術、鈴木メソードの考案者とも親交があったという野口晴哉(今年生誕110年)は教養高い人だったようで、文章がとても上手い。古い日本人にあるような格式高い日本語、ではないのですが、良い感じに力の抜けた風流人のごとき風情でちょっと真似したくなりました。 ここ数年、東洋の身体論、武道の身体論に注目が集まっているところで(今はそうでもないかな?)、過去に読んだもののなかでは 『FLOW――韓氏意拳の哲学』 はとても面白かったんだけれど、この『整体入門』もまたそのような身体論としても読めます。各部位の筋肉(筋力)によって部分を統御していき、その建築的な組み合わせによって身体を考えている、ように思われる西洋の身体理論とは違った考え方として。前述の韓氏意拳という武道においては、そうした身体理論さえも投げ捨てられてしまう、という脱構築武道ですけれども、伊藤整体においては「ねじれ」や「気の過少」といったタームが全体へと繋がって描かれる。椎骨が身体のコア部分となって、全体を統御する、といった感じにまとめられるでしょ

パリへ #3

パリ旅行記、3日目の。『pen』のパリ特集の写真などを眺め、早くも懐かしい気持ちになっているが実質はまだひと月も経っていない。おそらく私が見た風景や、感じた匂いなど、文章からはどうやっても伝わらないであろう、それがたとえ記憶が新鮮なうちであっても。しかし、急がねばならない。写真は朝、テレビをつけたらいきなりものすごいスピリチュアルな番組がやっている、その様子。おそらくはフランスの寂聴的な存在なのであろう。 この日の朝食はホテルの近くのカフェでとってみた。私はハムとチーズが入ったオムレツ(7ユーロ)、妻はクロックムッシュ(ーと伸ばすのが正しい模様。6ユーロ)。それにコーヒーが1.9ユーロ、ショコラショーが3.2ユーロ。郊外になると途端に飲食費が安くなる。4割ぐらい違う。 この日は朝からヴェルサイユ宮殿にいく予定だった。メトロではなく埼玉高速鉄道みたいな電車に乗らなくてはならないのだが、切符の買い方がよくわからず駅でちょっと困った。メトロはどこから乗ってどこで降りても料金が変わらない。けれども、このフランス版埼玉高速鉄道はちゃんと行き先を指定してあげなくてはならない。券売機は画面遷移が結構多くて「こういう画面の出し方は日本の券売機のほうが優れてるな~」と思った。カードで切符を買えるのは嬉しいのだが、紙幣は使えない、など「えっ」と思うことは多い。 朕は国家なりィィィ!!! の人がお出迎えしてくれる。 ほとんど朝イチなのにすぐに入場の行列ができてしまう。ミュージアムパスが使えるのでチケットは買わなくて済んだけれど、チケットを買う行列もできていたのでパスがないとなかなか大変。 入場してすぐのところ。天気が良かったのでゴージャス感が映える、が、このへんだけみると「こんな建物、有楽町あたりにあるんじゃね?」とか「あれ? 赤レンガ倉庫?」と思わなくもない。そもそも行く前からヴェルサイユ宮殿のイメージができていなかったので、どこがファサードだったのかもよくわからず。 人気ゾーンはとにかく混んでいて大変。そして想像していたより広くて大変。庭園内に入るにはミュージアムパスが使えず、別途チケットが要。マリー・アントワネット(キルステン・ダンスト)が百姓ごっこをしていた離宮などもあるのだが、1.2kmほど歩かないといけない、という罰ゲームじみ感じなので行ってません。っつーか地平線が見える庭っ