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2月, 2009の投稿を表示しています

莫言『転生夢現』(上)

転生夢現〈上〉 posted with amazlet at 09.02.21 莫 言 中央公論新社 売り上げランキング: 149103 Amazon.co.jp で詳細を見る   id:ayakomiyamoto さんの猛烈なレコメンドで興味を持って『転生夢現』を読み始めた。まだ下巻に手をつけてはいないのだが、半分まででだいぶ書いておきたいことが溜まってきたので記しておく。言うまでもなく、ものすごく面白い作品であるので、そうしたくなったのである。  この莫言という作家について「ガルシア=マルケスに影響を受けたマジックリアリズムが……云々」と言われているそうだけれど、この作品を読む限りは、ラテンアメリカの作家というよりかは、むしろラブレーあたりに影響を受けているのではないか、と感じた。中華人民共和国成立直後の土地改革によって殺害された地主がさまざまな動物に生まれ変わり、人間であった頃に治めていた土地のその後を人間ではないものの目線から語る。ロバや牛や豚の目線から諧謔的に語られる世界は、中華人民共和国の政治的変遷とリンクして変化していく。  語り口は柔らかでユーモラスであるのだが、かつての共産主義に対しての批判的なまなざしは強く、直接的であるように思われる。この直接性はガルシア=マルケスからはあまり感じられない。この本を読んでいて思い起こすのは『ガルガンチュアとパンタグリュエル』である。この『転生夢現』をマジックリアリズムと呼ぶのであれば、この形容はラブレーにも適用できるのであろう。ルネサンス時代にマジックリアリズムは存在したのであり、このような手法を今更取り立てるのは、言わば「語るための契機」に過ぎない。手法は内容ではない、ということを改めて感じたりもする。  小説は中華人民共和国の歴史そのものと言っても良いのかもしれない。私はほとんど現代史を知らないのだが、この本に書かれている中華人民共和国の様相には強く興味を喚起された。海を挟んですぐ隣の国について、これまで何も知らなかった点を恥ずかしく思いつつも、その隣国がとんでもない歴史を持つことを知ったときの驚異の大きさが恥ずかしさを勝る。というか、生まれ変わった地主の息子たちのその後の成長や愛憎劇よりも、物語上に登場する中華人民共和国の政治のほうが面白く感じられるほどで、現実の中華人民共和国の政治それ自体が笑えないギャ

クリント・イーストウッド監督作品『チェンジリング』

オリジナル・サウンドトラック Changeling posted with amazlet at 09.02.21 クリント・イーストウッド ジェネオン エンタテインメント (2009-02-04) 売り上げランキング: 53478 Amazon.co.jp で詳細を見る  クリント・イーストウッドの新作。日本公開前からものすごく楽しみにしていたのだが、期待通り素晴らしい出来栄えで、若干盛り込みすぎな部分があるものの(ヒューマン・ドラマとサスペンスがごった煮になっていたりする。しかもサスペンス部分は超ハードで本格的に恐ろしい)、中盤で号泣してしまったし、やはりエンディングはイーストウッドらしくモヤモヤっと心にわだかまりが残る感じとなっていて大満足だった。そして、今回も音楽の使い方が異常。イーストウッドが書く映画作品については 過去にエントリをあげている けれども、イーストウッドはあえてこういう風に音をつけているのかどうか、ものすごく気になってしまう。悲しいときには単調の音楽をつける……というような常套句的演出がほとんどない。常にあのなんとも言えないアブストラクトな音楽が流れているので、それはそれで不穏さを煽ってくる。警察がアンジェリーナ・ジョリーを貶める部分では、本当に不快な気持ちになってくるのだが、この不穏な演出がこの不快さを増長しているのではないか、と思えるほどだ。しかし、生理的な部分へと訴えかける力の強さもはや、この監督の作風なのだろうなぁ、と思うところもあり、むしろこのモヤモヤ感や不快感に拍手を送りたくなってしまう。  この作品から私が読み取ったものは主に2つ。1つは「システム」についてである。序盤から中盤にかけての物語では、腐敗したロサンゼルス市警によって、アンジェリーナ・ジョリーが、人権であるとか尊厳であるとかを蹂躙されまくる過程が描かれる。そこでの警察権力の姿は、村上春樹がスピーチで批判をおこなったシステムの姿と多く重なる部分があるのだが、この様相をもう少し社会学的な表現に置き換えると「システムの暴走」という風に換言できるであろう。そもそも警察権力のシステムとは、人権を守り、法を守らせるためのシステムとして社会におかれたものであろう。警察とは、この目的のために時に暴力を行使することが許されている特権を持つシステムである。  しかし、この映画内で描かれ

諸星大二郎『夢の木の下で』

夢の木の下で (Mag comics) posted with amazlet at 09.02.17 諸星 大二郎 マガジンハウス 売り上げランキング: 25484 Amazon.co.jp で詳細を見る  仕事が終わって帰宅してから同人誌 *1 用の小説を書いていたのだが、その途中で「私はもしかしたらものすごく諸星大二郎に影響を受けているんじゃなかろうか……」とハッとして気がついて、本棚から探し出して再読したのがこの『夢の木の下で』という短編集である。諸星といえば『暗黒神話』や『孔子暗黒伝』といった長編が有名だが、私はこの短編集が一番好きで標題作「夢の木の下で」とこれに繋がる「遠い国から」という連作、また「壁男」などを収録したこの本は学生時代から何度も読み返した記憶がある。  今回再読して改めて気がついたのだが、諸星大二郎という漫画家の書くストーリーには「一般の生活世界と趣がまったく異なる異世界との交流」というモチーフが頻出している。異世界を知った一般世界の人間には意識の変化がおこり、これまで自明のようであった自分の「当たり前の生活」に不安を抱き始め(存在論的不安である)、異世界へと旅立とうとしたり、自殺したりする。しかし、ここで興味深いのは、交流した先の異世界にも変化が生じる点である。  例えば「壁男」(人家の壁の中に自意識をもった壁男という妖怪のような存在がおり、人間の生活を観察している、という話)では、壁男と交流をもった女性が、壁男の世界へと入り込んでしまう。ここで壁女となった女性は異邦人的存在であるのだが、この異邦人が徹底的に無視されるわけではなく、むしろ、問題を引き起こす異質な他者として扱われる点が特に面白い。そこでは壁女を迫害する者もいれば、逆に保護しよう(そして愛そう)とする者も現れる。この2つの反応の違いによって分けられた壁男世界では、次第に権力闘争が生じる。この争いは壁女迫害派(=保守)と壁女擁護派(=革新)という風に色分けできるだろう。そして(ネタバレになってしまうが)この闘争によって壁男世界は崩壊してしまうという悲劇的結末へと帰着する。  思うにこの「壁男」という作品は、単なる空想話、あるいはホラーとして片付けられるものではなく、社会的なものをリアルに映し出したものである。これが映し出しているように思われるのは、主に2つ。1つは「

宮藤官九郎監督作品『少年メリケンサック』

少年メリケンサック オリジナル・サウンドトラック posted with amazlet at 09.02.15 サントラ 少年メリケンサック 少年アラモード GOA マサル ねらわれた学園 TELYA VAP,INC(VAP)(M) (2009-01-21) 売り上げランキング: 414 Amazon.co.jp で詳細を見る  宮崎あおいが可愛い……という2時間を楽しむ映画みたいなもので、それ以外はよくわからなかった……が、本当に主演女優である宮崎あおいがすごくて「ああ、役に入り込むというのはこういう感じなのだなぁ」と思った。大袈裟な喩えを出すならば、もはやトランス状態に入った巫女という感じがし、まったく性格は異なるけれども昨年『ダークナイト』に出演していたヒース・レジャーのジョーカーを彷彿させるような鬼気迫る演技である。彼女の一挙手一投足が自然なのだ。演技である、ということを忘れさせるぐらいに。そして、とにかく可愛い、と。映画は決してつまらないわけではなかったけれども、爆発的に笑える箇所や物語の盛り上がりには欠け、そういうわけで「宮崎あおい可愛いなぁ……」とクスクスという笑いが持続的に展開される感じで2時間が終わる。心に留まるような映画ではないのであろう。悪くない。とても上から目線で言ってしまうとそういうことである。  音楽は向井秀徳。これはなかなか良かった。「向井ってこんな曲も書けるのかぁ……」ととても歓心させられるところがいくつかあり(BUMP OF CHICKENみたいな曲を提供してるのには驚いた。ギターの音はあきらかに“あの”テレキャスターの音なのでとても面白い)、また、向井秀徳の嗜好が伝わってくるような音楽がサウンドトラックで使用されている。強烈なダブであったり、エキセントリックな打ち込み祭囃子であったり、彼のファンであらばニヤリとさせられるところだろう。私はこの映画を観て「意外に器用なアーティストなんだなぁ」と思ったりした。  些細なところでは、劇中で宮崎あおいがハンディカメラで撮影しているバンドのドキュメンタリ映像(一応、メタフィクション風の構造になっているのだが、この構造がうまく機能していない感じもする)のなかに映る遠藤ミチロウ(彼は物語の登場人物としても出演している)が相変わらずカッコ良くてちょっと感動した。

デヴィッド・フィンチャー監督作品『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』

The Curious Case of Benjamin Button [Original Motion Picture Soundtrack] posted with amazlet at 09.02.11 Concord Records (2008-12-16) 売り上げランキング: 19212 Amazon.co.jp で詳細を見る  とても良い映画。収束したと思われたシークエンスが意外なところで再度物語に復帰してくるところなどがとても小気味良く、途中自己啓発みたいな金言が挿入されるにも関わらず、違和感なく、気持ち良く鑑賞することができた。スコット・フィッツジェラルドの原作は読んでいないが(どこまでが原作に寄っているのかまったくわからない)、ブラット・ピット演じる主人公の幼年(老人)時代にニューオリンズ・ジャズらしき音楽が流れているところなどにグッとくる。最初の舞台はニューオリンズなのだ。とくに舞台がニューオリンズでなくてはならない理由などないのだが、ジャズが流れていることによって原作者のことが意識にあがってくるのだ。ジャズ・エイジ、ジャズの時代。それはフィッツジェラルドが最も輝いたと言われる時代である。それからブラット・ピットとケイト・ブランシェットの蜜月のあいだに流れるビートルズも良かった。  観ている途中で思ったことなのだが、この物語は多くの部分を『フォレスト・ガンプ』と共有しているところがある *1 。主人公が他者の人生を観察し、さらにその他者が主人公の人生を通過して死んでいく、そして主人公はその死を観察するという部分において。だが、『フォレスト・ガンプ』の主人公が常に無垢なる存在、永遠に子供のような感性のまま、観察をし続けるのに対して、ベンジャミン・バトンは観察によって、死によって成長を続ける。さらには自分が若返ることに対しても重みを背負うようになる。積み重なっていくしんどさは、ガンプにはないもので、私はこのどんどんしんどくなっていく感じが良いと思った。「私はあなたがたに精神の三段の変化を語ろう。いかに精神が駱駝となり、獅子となり、最後に子供となるか、を」(ニーチェ)。主人公のしんどさは最後、忘却によって救済されることになる。この収束の仕方もせつなくて好ましい。  それから、ベンジャミン・バトンの人生の黄金期ともいえる部分でスクリーンに映し出される

蓮實重彦『映像の詩学』

映像の詩学 (ちくま学芸文庫) posted with amazlet at 09.02.11 蓮實 重彦 筑摩書房 売り上げランキング: 225916 Amazon.co.jp で詳細を見る  このところ映画関連のエントリが続いているのは、この本を読んでいたことと無関係ではないだろう。批評というジャンルに位置した文章をアドルノが書いたものしか読まない(読んでいない)、という具合に偏っている私だが、蓮實重彦のこの映画論集はなかなか稀有な読書体験を与えてくれた。それはこの本に書かれた文章のほぼすべてが、私にとって無意味である、という意味においてである。この本のなかで触れられる映画のなかで、観たことがあるものはジョン・フォードとハワード・ホークスとルイス・ブニュエルのいくつかに限り、それ以外の作品について語られたとしても、いったい何を語っているのか皆目見当がつかない有様。例えばベルトリッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』にしても「踊り続けることがファシズムへの抵抗なのである……云々」と有難そうな文句が並んでいても、へぇ……そうなんだ……(観てないからわかんないケド)と思うしかない。ただ、そのように無意味な読書がつまらない読書とイコールで繋がるか、と言えば、そうではなく(逆に語られた内容が理解できても、つまらない読書もあり得る)、批評とはなんのためにあるのか、だとか批評論――というものがあるのだとしたら――について考えるには大変有意義な本であった。  以下に読みながら考えていたことをメモ程度に記しておく。  ひとつはこの本が書かれた1970年代という状況と、現在とでは批評が書かれる状況について意識せざるを得ない、ということ。今調べたところによれば、家庭用ビデオ再生機が普及しはじめるのは70年代後半を過ぎた頃のようである(VHSが開発されたのが76年のこと)。おそらくは蓮實重彦も、映画の詳細を確認するためにビデオを再生することなど不可能な状況で文章を書いているのだと思う。よって批評はおのずと記憶を頼りにしてかかれざるを得ない。この本に収録されたハワード・ホークス論にはこんな記述がある。 それが途方もなく美しいのは、このライターのぶっきら棒な往復運動が、2人の登場人物によってまるでなかったように忘れさられてしまうからだ。 あるいはライターではなくマッチ箱だったかもしれないが

井口昇監督作品『片腕マシンガール』

片腕マシンガール [DVD] posted with amazlet at 09.02.09 NIKKATSU CORPORATION(NK)(D) (2009-01-23) 売り上げランキング: 571 Amazon.co.jp で詳細を見る  会社の上司が「これを観ろ!」と言ってDVDをくれたので観た(一緒にいただいたのは野村芳太郎の『鬼畜』)。上司が私をどうしたいのか、果たしてこの会社に入ってよかったのか、さまざまな不安が脳裏を過ぎったが、そこは日本のサラリーマン。上司の命令は絶対である。正座で鑑賞した。胃のあたりに軽い不快感を感じながら……(スプラッターとかホラーとか基本的に苦手なので)。でも、尺の短さもあって退屈しないで観れたので良かった。しばしば「くだらねー!」と声を出して笑ったが、単にそれだけのために1時間半を費やすことの虚しさみたいなものが木枯らしのようにやってきてしまう。それでも『20世紀少年』よりはマシだったから多少救われた感じもするけれど、虚しくなるか、満足感があるか、で映画ファンとしての純度が判別できるのかもしれない……。後者であれば(嫌味でなく)尊敬に値すると思った。  女子高生、人体破壊、血、忍者、引用……さまざまな記号が散りばめられた、というか記号の集積によって成立したコラージュ的な物語の流れは、あからさまに、不自然な流れ方をする。このご都合主義と揶揄できそうな不自然な流れは、ギャグとして取り扱うべきものなのだろう。観客はそこで製作者側の外部からの介入を強く感じる。そして「なんでそうなるのだ!」というツッコミは物語ではなく、物語の裏側(外側)にいる製作者に向けられる。私の貧しい映画体験のなかでここまで介入を感じたものはなかったので、そこが新鮮だったりもした。  ここまで強烈な不自然さを目のあたりにすると、自然に流れていく物語も相対化できてしまいそうだ――しかし、相対化というよりも、不自然な物語も、自然な物語も根本的には同質なものであるような思いのほうが大きい。不自然であっても、自然であっても、物語は製作者の都合によって常に流れるものなのだから。こう考えると「ご都合主義だからダメだ」とか「自然だから良い」とか「論理的で素晴らしい」とか「非論理的で馬鹿らしい」といった価値判断がなんだか不当なもののように思えてくる。  「くだらねー」とか言

ミシェル・ゴンドリー監督作品『エターナル・サンシャイン』

エターナルサンシャイン DTSスペシャル・エディション [DVD] posted with amazlet at 09.02.09 ハピネット (2006-10-27) 売り上げランキング: 1487 Amazon.co.jp で詳細を見る  BSで観る。ミシェル・ゴンドリーの作品を観たのはこれで2本目だが、特殊技術に頼り切らない(技術を見せ物的に、作品内容として使用しない)映像の作り方にハッとさせられるときが多々あって好感が持てる。スタイリッシュ。この監督は追憶だとか過去をテーマに据えているのだろうか。これらのテーマには、しみったれ感がつきまといがちだが、これがなんとも個人的なツボをついてくる。この作品を観て「この監督、好きかも……」と思った。  “私”にできることは、現在という観測地点から過去を時折確認することに過ぎず、未来とは本質的に不確定なものであり、過去の経験から推測するものでしかない。しかし、過去を操作することもできない。それは過去になった時点で過去として確定され、更新することが不可能である。  だが事実的な過去と記憶の間にはある程度の遊びがある。強い思い込みや錯誤によって、“私”は過去を事実とは違ったように認識することが可能である。よって、“私”が未来の推測のために参照するのは過去ではなく、厳密に言えば記憶なのだ。  こう考えると、記憶を操作することとは未来を操作することに密接に関連づけられる。この映画に登場する記憶の消去サービスとは、単に過去の認識を書き換えることではなく、未来を望ましい方向へと向かわせる手段として描かれる。  興味深いのは、未来を変えるために記憶の消去をしたにも関わらず、消去した過去を反復してしまう人物たちである。この人物たちに更新できない、人間の(というか個人の)本性が表れる。これはあたかも運命的であり、予定調和的である。この変えがたい本性のようなものによって、キルスティン・ダンストがものすごくしんどい思いをするところが良かった(良くないケド……)。  それから、もう一点。記憶消去サービスのスタッフが、サービスを受けた女性に一目惚れをし、消去した彼女の記憶を参照しながら彼女に取り入ろうとするシークエンス。これも救われない感じがして良かった。彼の自分の存在を半ば殺すようにして、消去された記憶の男になりすます。愛されるのは、自分では

黒澤明監督作品『七人の侍』

七人の侍(2枚組)<普及版> [DVD] posted with amazlet at 09.02.08 東宝 (2007-11-09) 売り上げランキング: 497 Amazon.co.jp で詳細を見る  祖父の四十九日があるので帰省しているところに、BSで黒澤明の『七人の侍』が放送されていたので家族と一緒に観た。祖父が好きだった映画である。この作品を観たのはこれでたぶん3度目だが、初めて観たのは祖父がレンタルで借りて来たときだったはずだ。    序盤の侍集めのシーンで薪割りをする侍が登場したとき、母が「あんな綺麗な薪なら誰だって割れる」と言った。曰わく、“本当の”薪というのは節くれだち、形も不均等だから難しいのだそうだ。まったくどうでも良い一言だが、この一言で映画には色んな見方があるものだ、と関心してしまった……と同時に、これは隣で一緒に映画を観ている“家族”が他者として表れる強烈な瞬間でもある。同じ映画を観ていても、昭和中期(ちょうど『七人の侍』が公開された頃)に東北の貧乏農家に生まれた母と、それから約30年後に生まれた私とでは、まるで見えているものが違うのだ。  こう改めて書いてしまうと、まぁ、当たり前と言えば当たり前の話である。しかし、母と私という共有しえない体験を常にし続ける他者同士が、家族という社会的な関係性を築いている、というこの事実、これは驚異的なことなんじゃないだろうか、とも思う。この素朴な事実に驚異を感じられれば、少し他者に対して寛容さを持つことができそうだ。  それはさておき『七人の侍』について、今回思ったことを書いておく。  村の20軒の家を守るためには村外れにある3軒を犠牲にしなくてはならない、戦とはそういうものだ、と劇中で志村喬は厳しく言い放つ。戦とはそういうものだ。この一言によって全体主義が承認される。このギリギリの状況では全体の勝利を、全体の力を総動員することによって(マイノリティの犠牲を払うことによって)でしか得られない。『七人の侍』における状況とは、太平洋戦争下の(国家総動員法施行下の)日本の状況とうまく布置できよう。  この例外状態の終わりが侍と農民の娘との恋愛関係の終焉によって明示されるのが良い。しかし、例外状態において払われた犠牲についてはほとんど問題にされていないのではないだろうか。ラストに映し出される戦

ジョン・バンヴィル『コペルニクス博士』

コペルニクス博士 (新しいイギリスの小説) posted with amazlet at 09.02.07 ジョン バンヴィル 白水社 売り上げランキング: 568060 Amazon.co.jp で詳細を見る  アイルランドの作家、ジョン・バンヴィルの作品を読むのは、この『コペルニクス博士』が初めてである。内容はタイトルがそのままで、地動説を提唱したコペルニクスを主人公にしたもの。これは大変に知的な小説だった。ギリシャ以来の天文学の知識や哲学についての記述(それが正しいものなのか判別はできない)が盛り込まれており、幻惑させられるようなところがある。この作家はほかにもケプラーを主人公にした作品も書いているそうだが、これも同じようなテイストなのだろうか。南米の作家のような吹き出したくなるような想像力の発露があるわけではなく、かなり硬い文章で綴られているので読みづらいところがあるかもしれないが、こういう硬さからも知性的な印象を受ける。  コペルニクスの誕生から死までを追っている。なかでも、天文学の研究に身を捧げようと決意するまでを描いた第1章が良かった。作者はコペルニクスへと世界の根源的な未規定性への恐れを投影している。自分はなぜここに存在しているのか、こういった実存的不安を持つコペルニクスが天文学へと打ち込みはじめるのは、その学問が世界の成り立ちを解き明かす鍵となっているのではないか、という思い込みからである。天才である彼は、はじめからプトレマイオスを信じていない。しかし、地動説を提唱するには勇気がいる。自分の説によって人は幸福になれるのか、地動説によって地球は矮小化さする(地球=私たちの世界は世界の中心ではない!)、それは絶望を与えるのではないか……こういった別な不安にコペルニクスは悩む。必然的に彼が抱くのは孤独である。誰にも理解されない、孤独。これはイタリア留学中にであった貴族との恋愛(ちなみに同性愛)を経由して、一旦解消されそうになるのだが、結局のところ愛によっても満たされない。コペルニクスは天文学をやるしかない、それしか残されていないのだ、というところで第1章は終わる。この切実さが胸を打つ。翻訳者による解説では「ポストモダン小説云々」とされているのだが、こう読むと大変にオーセンティックな近代文学という感じがする。  ただし、その後があまりよくない。天文学にも

ホルヘ・ルイス・ボルヘス『ブロディーの報告書』

ブロディーの報告書 (白水Uブックス (53)) posted with amazlet at 09.02.05 ホルヘ・ルイス・ボルヘス 白水社 売り上げランキング: 82743 Amazon.co.jp で詳細を見る  ラテン・アメリカの作家のなかでも、このホルヘ・ルイス・ボルヘスはちょっと毛色が違った存在だと思っている。ガブリエル・ガルシア=マルケスやカルロス・フエンテス、あるいはバルガ・リョサたちが想像力を外向きに外向きに発展させていき、熱が放出されるような幻想を描いているのに対して、ボルヘスはなにか想像力の進む方向がまるで逆で、内向きのように感じるのだ。彼が書いた数多くの短編に触れるたび、どれも迷宮に足を踏み入れたような不安が湧く。主題はいくぶんつかみづらく、晦渋な文体で書かれた、まるで韻文のような(これは彼のキャリアのはじまりが詩人であることと関わっているのだろうか?)スタイルには、ほとんどホラーに近い――以上のようなことをボルヘスの『砂の本』、『伝奇集』、『不死の人』といった作品集を読んでいたときに考えていた。だが、この『ブロディーの報告書』(1970年)を読んだら、前述した作品集のどれとも少し異なった印象を受け取ってしまった。  「成功したか否かはともかく、作者が書こうとしたのも、直截な短編であった」とまえがきでボルヘスは語っている。この作品にはアルゼンチン的な主題の代表であるガウチョが多く登場し、ほとんどリアリズム的に描かれている。このような描き方を彼が言う「直截な短編」とみなして良いかどうかはわからないが、個人的にはこの時点でかなり驚きであった(ヘミングウェイが選びそうな主題である)。しかし、ここに神話的なモチーフや、幻想が練りこまれているのだから一筋縄ではいかない。なかでも『ロセンド・フアレスの物語』という作品は、実に不気味である。これはボルヘスが酒場で出会った老人が語る、自分の若かりし頃の昔話という体裁をとる。老人はかつて怖いもの知らずのガウチョだった。しかし、あるとき、自分に喧嘩を売ってきた別なガウチョのなかに「自分の分身」を見出してしまう。これが老人がガウチョの世界から足を洗うきっかけとなる。突然に自分を映す鏡のような存在(ドッペルゲンガー)が現れるところが、かなりあっさりとまるで良い話のように語られているのが余計に恐ろしい。  『ブロ

Holger Czukay/Movies

ムーヴィーズ(紙ジャケット仕様) posted with amazlet at 09.02.03 ホルガー・シューカイ Pヴァイン・レコード (2007-08-03) 売り上げランキング: 39141 Amazon.co.jp で詳細を見る  こんな零細ブログにも月に2000円ぐらいのアフィリエイト収入があって(買い物してくださる方にホントに感謝!)、毎回それで得たアマゾンギフト券はすぐさまに「欲しかったけど買ってなかったもの」、「昔持ってたけど失くしたりして買いなおそうかと思っていたもの」、「誰も買いそうにないもの」といった商品の購入にあてている。で、今月はホルガー・シューカイの大名盤『Movies』を買ったのだった。  もはやエレクトロニカの古典中の古典と化した感のあるアルバムだが、実は人に借りただけで持っていなかった。一時期「自分のHDDには、自分で買ったCDの音楽データしかいれないぞ!」と思い立って、100GBぐらいの音楽データを消したことがあるのだが、そのとき一緒に消してしまっていたため、聴くのはかなり久しぶり。  聴きなおしてみたら内容が素晴らし過ぎて感動してしまった。時を経ても価値が落ちない音楽、半ば普遍的な価値を持つ音楽のひとつにこのアルバムもおそらくは数えられるのだろう。なんかスクエアプッシャーみたいな曲とかあるんだよな……。  今回購入したのは最近になってリマスタリングが施された盤なのだけれども、びっくりするぐらい音が太くなっていてこれも感動。クラブにある大きいスピーカーで聴いたら、脊髄あたりにドシンと響きそうな音になっている。ここ数年で、CANのアルバムのリマスター再発などもあったけれど、そちらも含めて随時買いなおそうかと思ったほど良い。  あと、ホルガー・シューカイってジョー・ザヴィヌルにそっくりだよねぇ……。 Zawinul posted with amazlet at 09.02.03 Joe Zawinul Rhino/Atlantic (2007-06-05) 売り上げランキング: 42883 Amazon.co.jp で詳細を見る

ハーフ・マラソン完走したよ日記

マラソン初心者に伝えたい!失敗しないシューズの選び方 - 「石版!」  先日、上記のエントリを書いてみなさまにたくさんのブックマークをしていただいたけれども、昨日がその本番の日だったのである。初レース、初ハーフ・マラソンと初めてだらけだったけれど、無事完走。タイムも目標の2時間を切って1時間50分ぐらいとなかなかの上出来な感じ。で、今回はハーフ・マラソン童貞を捨てるまでの過程を振り返ってみたい。 練習  レース参加を決めたのが12月の後半で、準備期間は1ヵ月半ぐらい。時間は多くなかったので、暇があるときはとにかく走りこんだ。だいたい普通は5キロぐらいの距離を週に2回。5キロぐらいだと20分ぐらいで走れたので、仕事で家に帰ったのが22時ぐらいになってもなんとか気合を出せば練習できた。  それから12キロぐらいの距離を2回ぐらい走ってみた。これは会社のマラソン大好きおじさんに相談したら「ハーフでも初めてなら、練習で10キロ以上走らないとつらいよ」と教えられたので。いつも音楽を聴きながら走るのだが、2度目はブルックナーの交響曲第8番を聴きながら走って、走り終わったのが3楽章の途中(だいたい45分ぐらい)だったことに気がついて「なんだ、俺結構走れるんじゃん」と思ったりして、この練習で自信もついた。  練習のときにはだいたいペース配分と呼吸、あとはフォームなどをランニングについて書かれている本を立ち読みして得た知識などを思い出しながら走ると楽しかった気がする。やはりマラソンみたいな「ただ走るだけ」みたいなスポーツでも頭を使って練習しないとダメな気がする。疲れたときこそ、腕を振る、とか。本によって書いてあることが違ったりするけれども、そのあたりは自分が楽な方法を選択すれば良い。 道具  シューズのほかに買って良かったと思ったものは、テニス用のヘアバンドと5本指ソックス。私は前髪が長いので、走っていると目に入ってきたり、汗で濡れた髪が額に張り付くのがウザかったのだが、ヘアバンドをしたら何も問題がなくなった。目に汗が入ったりすることもなくなったし、とても便利。難点はヴィジュアルがややイタい感じになることだ……。    5本指ソックスは12キロ走ったときに足に6つもマメが出来てひどかった(走っている間は平気だが、次の日につらい)ため、ネットで調べたら「5本指ソックスが効果的」とあった