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3月, 2010の投稿を表示しています

ヘルムート・ラッヘンマン《Reigen seliger Geister》の解説

Helmut Lachenmann: Grido; Reigen seliger Geister; Gran Torso posted with amazlet at 10.03.28 Kairos (2008-01-14) 売り上げランキング: 162855 Amazon.co.jp で詳細を見る  昨日 *1 の続き。サクサク進めてしまったが、《Reigen seliger Geister》は、後半の段落がよくわからずかなり適当に訳した。なんか批判理論っぽい話。 《Reigen seliger Geister》  《Reigen seliger Geister(祝福された魂の輪舞)》は、空気で音を鳴らす、あるいは音を空気で鳴らす、といった知覚のゲームです。私は冒険的な最初の弦楽四重奏曲《Gran Torso》は楽器の演奏という領空を侵犯するような作品――この領空侵犯は長い年月をかけて、最近でも他の作曲家によって行われ続けています――を書いた後、ファサード *2 としての、あるいは名目としての「書かれたもの」という音程の布置連関に注目しました。音程といったものは、自然な音階や、アーティキュレーション、音の減衰とう風に理解されています。しかし、音楽の急激に全休止すること、または弦の振動を止めてしまうこと(例えば、弓がponticello *3 とtasto *4 の間で変化させることによって音の内容には変化が生まれます)といった試みにより、私は「死んでしまった」調性構造を打破し、生にたいする客観性をもたらすような経験を導きたかったのです。  このような行動の領域は、劇的であったり、変化をもたらすようなものであったり、逆に忘れられてしまったような様々な演奏技術によって決定されます。ピアニッシモとフォルティッシモの間には様々な中間的な価値ともよべるものが抑圧されているのです。外見的には、音階のない音のなかで、弓弾きが突然なくなったり、突然現れたりします――それまでピッツィカートを連続して弾いていても、状態は長続きせずコロコロと変わっていきます。もしかしたら、あなたは裸の王様に弁明するような気分になるかもしれません。 ※ 《Reigen seliger Geister》はアルディッティ弦楽四重奏団への献呈作品。Festival d'Automne

ヘルムート・ラッヘンマン《グラン・トルソ》の解説

Helmut Lachenmann: Grido; Reigen seliger Geister; Gran Torso posted with amazlet at 10.03.28 Kairos (2008-01-14) 売り上げランキング: 162855 Amazon.co.jp で詳細を見る  《Grido》に続いて *1 、ラッヘンマンが最初に書いた弦楽四重奏曲《Gran Torso》の作曲家自身による解説を日本語に訳した。ブックレットは《Grido》、《Reigen seliger Geister》、《Gran Torso》の順になっているのだが、順番を間違えて訳してしまっていた。 《Gran Torso》  《Gran Torso》は1971年から1972年にかけて作曲され、そののち1978年に改訂版が出されています。その間、《Air》、《Kontrakadenz》、《Pression》そして《Klangshatten》といった作品において、私は一連の伝統からの脱却を目指して「素材の概念化」の模索を行っていました。そこでは、その作品自体を聞かせるというよりも、技巧や楽器の構造、あるいは演奏者の能力のなかから、新しい音の創造をおこない、それらの構造的かつ形式的な階層関係を導くことが目指されていました。そのような「脱却の試み」が単純に成功した、といえないことは明らかです――それらは、予定調和的に伝統が具体化している「楽器自体が持つ音」に反抗を試んでいたわけですが。特殊技法はその反抗的な行為に含まれたとても大きな矛盾の氷山の一角に過ぎません。なにしろ、演奏家自身は反抗の対象となるブルジョワ的な芸術家なのですから。しかし、そのような議論の背景では、同時に、従来的な美への異議申し立てがおこなわれているのです。もしあなたがそのような美を望んでいるならば、このような作品で満足することはできないでしょう。この「トルソ」と呼ばれる作品が、構造的な領域において、明確に新たな音楽の次元を切り開く意味合いを含んでいる、という言い切れる理由はそこにあります。あらゆる実際のコンサートで、演奏に関わる現実的な限界を崩壊させる可能性がここにはあるのです――もしかしたらそれはいやいやながら解放されるのかもしれませんが……。《Gran Torso》に含まれた意味はそのようなもの

ヘルムート・ラッヘンマン《グリド》の解説

Helmut Lachenmann: Grido; Reigen seliger Geister; Gran Torso posted with amazlet at 10.03.28 Kairos (2008-01-14) 売り上げランキング: 162855 Amazon.co.jp で詳細を見る  「KAIROS」レーベルから発売されているヘルムート・ラッヘンマンの弦楽四重奏曲集についてきたブックレットには作曲家自身による曲目解説が収録されている。これを日本語にしてみた(原文はドイツ語。英語訳からの重訳)。「くだらねー批評みたいなモノを書き連ねてもちっとも人様の役にたたねぇよ! ちょっとはインターネットを人の役に立つように使え!」という山形浩生氏の考えに共鳴して、こんなことをやってみている次第である。ホントは前からやりたかったんだけど、まぁ、やる気がなかなかね……(権利関係? そんなの問題が起ってから考えれば良いじゃん!)。当方、中学生以下の英語力ですが、今回のはそこそこ日本語訳っぽくなっていると思う。 《Grido》  作曲することとは、私にとって、「ある問題を解決すること」と一概にはいえません。そこにはある種のジレンマとの格闘があります。それはトラウマのようなものなのですが、一方で快楽を伴うものでもあるのです。というのは、作曲に関する技術的な挑戦に直面するということが(それは自然と気がついたり、自らその挑戦を選択していたりするわけですが)、それ自体、ある問題解決を運んでくるものと関係しているのです。このような状況は、私にとって、新しいものではありません。そして、私はその挑戦に失敗したときでさえ、本当の意味で発見をおこなうといった経験を持つことがあるのです。私は音というものを謎を含んだものだと捉えています。別な言い方をすれば、それらはすべてが「問題」であり、「トラウマをともなったジレンマ」なのです。本当の音楽とはそういった概念的な疑問を具体化したものなのです。しかし、この本当の音楽、という概念は疑問を残すものでしょう。なぜなら、今日において音楽はあらゆるところに偏在しており、いついかなるときでも手に入れられるものとなっているのですから。音楽は我々の市民社会に洪水のように溢れており(それは音楽消費者の魔法です)、それが普通になっていて、むしろ何の意味もなくなっ

4月から6月の注目コンサート情報

 ふと思い立って、4月から6月の注目コンサート情報をブログに書いてみることにする。ここで「注目」と言っているのは「俺が行く」のと同義であります。結構海外から大物ソリストが来日しているんだけれど、チケットが高いので全部無視!(5月のポゴレリチのリサイタルは聴きに行きたかったな)。それではまず4月から。 2010年4月22日(木) 東京藝術大学奏楽堂 藝大21 創造の杜「ヤニス・クセナキスの音楽」 曲目 《ピソプラクタ》 《イオルコス》(日本初演) 《メタスタシス》 《シルモス》――弦楽合奏のための 《デンマーシャイン》(日本初演) 演奏 ジョルト・ナジ(指揮)/藝大フィルハーモニア チケットなどの詳細(ぴあ)  死後9年になるヤニス・クセナキスの特集。デビュー作《メタスタシス》ほか初期作品と、日本初演となる晩年の作品が演奏される。聴き終わったら2キロぐらい体重が減っていそうなヘヴィ級のプログラムだが、演奏するほうはもっと大変か……。2000円でクセナキスを聴きまくれる機会など、あんまりないだろう。初期作品のほうはアルトゥール・タマヨ/ルクセンブルク・フィルの管弦楽作品集(5枚組ボックス)の5枚目に収録されている。予習はそちらで。正直、数学や確率論を使って作曲した……云々という作曲法の理論的側面については、よくわからない(っていうか、どうでも良い)けど、カッコ良いっす。大きな音の群れなかで、細かい音符がウネウネとしているところとか。 Works for Orchestra posted with amazlet at 10.03.27 Xenakis Orch Phil Du Luxembourg Tamayo Timpani (2009-11-24) Amazon.co.jp で詳細を見る 2010年4月26日(月) サントリーホール 読売日本交響楽団 第492回定期演奏会 曲目 ベートーヴェン/序曲〈コリオラン〉 《マーラー・イヤー・プログラム》 マーラー/交響曲第10番 から“アダージョ” 《3つの〈ペレアスとメリザンド〉》 シェーンベルク/交響詩〈ペレアスとメリザンド〉 指揮 シルヴァン・カンブルラン チケットなどの詳細(読響公式)  2010年度の読響サントリー定期の一発目は、スクロヴァチェフスキに代わる読響常任指揮者、カンブルランが登場。カンブルランは20

PETER GABRIEL/Scratch My Back

Scratch My Back posted with amazlet at 10.03.26 Peter Gabriel Real World Prod. Ltd (2010-03-02) 売り上げランキング: 2783 Amazon.co.jp で詳細を見る  新譜。ピーター・ガブリエルのソロ名義での新作は実に7年ぶりになるという。ちょうど前回のアルバムが出たときは、本作の日本版ライナー・ノーツに文章を寄せている岩本晃市郎氏が編集長を務めている『ストレンジ・デイズ』編集部に出入りしていた時期だからなんとなく覚えているな。今回はカヴァー曲集、しかも1曲目からデヴィッド・ボウイの「Heroes」なもんで超ドキドキして聴き始めた――で、最高……! と聴き入ってしまったわけである。今回ピーガブがカヴァーしたアーティストによる、ピーガブの楽曲のカヴァー曲集も出るって話だからそちらも期待したい。  アフリカの貧困国に対しての援助活動をおこなうアーティストの先駆者、という一面を持ち、見た目も仙人じみてきており、なんだか良識派ミュージシャンの一派のくくりに入っちゃってるんじゃないか、というピーガブだが、音楽的にはハイファイ・サウンドへの異様なこだわりなどなど偏執狂的な部分がこの人にはある。そういう人が普通のカヴァー曲集を出すわけがなく、今回も「ギターとドラムを使わない」というルールが敷かれた上で制作が行われたようだ。ピーガブの伴奏を担うのは、ストリングスを中心とした室内オーケストラ。アレンジは、スティーヴ・ライヒっぽくまとめられている。はっきり言って、ほぼ原曲の面影はなし。完全にピーガブ色に染め上げられてしまっている。「Heros」も聴いてると「Here Come The Flood」みたいに聴こえてくる。  それだけにヴォーカリストとしての彼の魅力が存分に楽しめる、と言って良いだろう。別に超上手いわけではないのだが、この声はやっぱり良いよ……。なお、スペシャル・エディションを買うとピーガブのサイトからCDよりも高音質な音源がダウンロードできるんだって。CD以上のピーガブ・サウンドを楽しみたい方はそちらを。

ピエール・ブーレーズ『ブーレーズ作曲家論選』

ブーレーズ作曲家論選 (ちくま学芸文庫) posted with amazlet at 10.03.26 フ゛ーレース゛ 筑摩書房 売り上げランキング: 48898 Amazon.co.jp で詳細を見る  奇しくも本日はピエール・ブーレーズ、85歳の誕生日らしい。そんな日にこの本を読み終えるとはなんとも感慨深いのだが、はっきり言って特に面白い本ではないと思う。今回初めてブーレーズによる音楽批評を読んだけれども「この程度なのかなぁ……」と言う感じ。かつては「オペラ座を爆破せよ!」などとアジっていた人だから、もっととんでもないことを書いているのかと思ったら、あまりにも普通なのだった。訳の調子はまるで退屈な蓮實重彦である。立派な作曲家であり、優れた指揮者であることは間違いないのだが、批評家としてはごく普通のレベルに留まるのかもしれない。分析から批評へと飛び立っていないこの感じは、少なくとも私個人的には求めるものではなかった。  そこには音楽と言葉の関係の難しさが現れているように思われる。音楽を百パーセント、言葉に換言することはできない(もしできたとするならば、言葉は不必要なものとなるだろう)。このことはデリダやアドルノや、茂木健一郎に宛てた斎藤環の手紙を参照しなくとも分かりきったことである。しかし、その還元の出来なさのなかに批評の可能性は潜むのであろう。それぞれ別々なものを並べ、それらが互いに媒介するもののなかから新たな意味を生産すること。これがベンヤミンやアドルノがおこなった批評の戦略である。このような意味の跳躍ともいえる行為がブーレーズの批評には存在しない。ブーレーズの退屈な文章が伝えるのは、言葉によって音楽を言い表す、その限界に達したときの言葉の哀れさだ。

読売日本交響楽団 特別演奏会 @東京オペラシティコンサートホール

指揮 スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ 曲目 ブルックナー:交響曲第8番  美しいとかカッコ良いとかそういう価値によって計られるのではなく、とにかく偉大な音楽という姿をもって聴衆の前に現れる音楽が存在する。ブルックナーの音楽とはそのような種類の音楽に属し、そしてそのことを最初に教えてくれたのはスタニスラフ・スクロヴァチェフスキという指揮者だった。この出会いは、本当に幸せな体験だったと思う。今日はそのスクロヴァチェフスキが読響の振った特別演奏会。彼はこのオーケストラの常任指揮者を3年務め、今期でめでたく任期満了なのである。曲目はブルックナーの交響曲第8番というのだから聴きに行かないわけにはいかない。  ブル8は1時間半近い長大で冗長な作品だ。これを存分に楽しむには聴取のための体力と集中力が必要だ。ひとつひとつレンガを積み重ねるようにして作り上げられていく大きな物語を、聴衆は追っていかなければならない。そのように集中して聴いていれば当然、終わった後には軽い疲労感に襲われる。にも関わらず、終わった後には「もう1度、最初から聴きたい」と思わせられるのだから不思議なものだ。スクロヴァチェフスキの手腕はそこに発揮されているのだろう。すべての「伏線」を一本の線に回収する解釈はとことん自然であり、明快だ。スクロヴァチェフスキの音楽には、心地よい疲労感を与えてくれる力強い流れがあるように思われてならない。ゲネラルパウゼではゆったりと余韻を取り、豊かな響きを味わわせ、細やかなルバートをかけながら小さな区切りを作っていく。そこには巨匠然とした大仰さは皆無だ。キビキビとし、清潔感のある、まるで落ち着いた若者のようなブルックナーを聴かせてくれる。  この日の読響の演奏は全体的にいつも以上のまとまりがある良い演奏だったと思う。特に2楽章が良かった。何度も繰り返される低弦による主題は、これでもか! というぐらいに歌いまくっており、演奏者の楽しげな表情からスクロヴァチェフスキとオーケストラの蜜月がどことなく感じられたのも見ていて楽しいものだ。  正直聴く前から「きっと今日は泣いてしまうだろう」という予測を持って臨んだのだが、その通り、1楽章の後半でいきなり涙が溢れてしまい、胸がいっぱいになってしまった。しかし、スクロヴァチェフスキと読響の関係は今期が終わりではない。来期からは桂冠名誉指揮者の役職

綿矢りさ『蹴りたい背中』

蹴りたい背中 (河出文庫) posted with amazlet at 10.03.23 綿矢 りさ 河出書房新社 売り上げランキング: 48134 Amazon.co.jp で詳細を見る  綿矢りさの芥川賞受賞作を「ゲーッ、こんなキッツい話だったの……」と思いながら読む。クラスメイトを「レベル低くない?」と評価する主人公の独尊っぷり。近寄られただけでブラを外される! と恐怖する主人公の妄想力。こういうのすっごい分かってしまって、ものすごく恥ずかしくなりましたよ。やめてー! もう、やめてー! と思いながら読んでしまった。こういう気持ちになるの、お願いだから自分だけじゃないでいて欲しい。この小説を読んでいてジリジリと感じてしまう、恥ずかしさと嫌さ加減はほとんどホラーに近い感覚だった。

ヘルムート・ラッヘンマン/歌劇《マッチ売りの少女》の解説(続き)

Lachenmann: Das M〓dchen mit den Schwefelh〓lzern posted with amazlet at 10.03.20 Kairos (2002-06-03) 売り上げランキング: 266422 Amazon.co.jp で詳細を見る   ヘルムート・ラッヘンマン/歌劇《マッチ売りの少女》 - 「石版!」 でやってみた翻訳の続き。 2.壁にもたれかかって  夜も更けてしまい、通りはガランとして人通りも少なくなっている。「ふたつの家に挟まれた曲がり角に彼女はちぢこまって座り込んでしまった」。彼女は思い切って家に帰ることができなかった。寒さは徐々に攻撃的になっていき、彼女をとらえていく。これらのイメージとしての音楽は、甲高く、また違った形式でもう一度暴力的になり、麻痺を呼び起こしながら、強くなり続ける寒さの震えるような死の恐怖となる。  「彼女がマッチに火をつけたならば……」――彼女の最後の頼みの綱がマッチであった。コル・レーニョ・サルタンド *1 と、最初のかすかな「シュ!」という音は、ほとんど聞き取ることができない――ヴァイオリンは、マッチ棒の象徴である。日本の寺院のゴング *2 の音と、 *3 リムの外側を擦る音によってもたらされる張り詰めた空気が静寂のなかに吸い込まれていく。すると、最初の暖かい幻想が彼女を包み込んでいく――そこで放たれる協和音は、大きな真鍮のストーヴのイメージだ。  しかし、マッチの光が消え去ってしまうと、ストーヴが消え去ってしまう。残ったものは冷たい家の壁だけだ――発砲スチロールによる耳障りな、カサカサとした音によってそれが表現される。けれども、その状況に対しての抵抗する態度ははっきりと目覚めている。側面に立った極度にゆっくりとした弦楽器のジェスチャーが、それを物語っている。いまや「連祷 *4 」の協和音がそれに続く。そこでは、ヴォーカリストとオーケストラによって、テキストが音の無いフォルテシモで囁かれる。「犯罪者、狂人、自殺者……彼らは矛盾の化身である。不運にも彼らは死んでいく……」(Gudrun Ensslin *5 がスタムハイムの刑務所 *6 から書き送った手紙の断片)。「我々の肌に書いた」 *7 ――これはタムタムとティンパニによって描かれる。  「シュ!」二度目の音がする。するとまた魔法の

第5回JFC作曲賞本選会 @トッパンホール

 縁あってJFC(日本作曲家協議会。会長は小林亜星)主催による若手作曲家コンクールの本選演奏会を聴きにいく。今回のコンクールで応募があったのは16作品。本日はそのなかから審査委員である近藤譲により4作品が選ばれて演奏された。本選に残った作品は以下の通り。 折笠敏之:《Les Transitions》 前田恵実 *1 :《kyo-奏曲》 清水卓也 *2 :アンサンブルのための《三十六角柱の表面にある宇宙》 山本和智 *3 :《半径50m》  4作品とも違ったタイプの作風で、とても興味深かった。仮に「現代音楽界の地図」を作るとするならば、4人の作曲家はそれぞれまったく違う場所にマッピングできそうである(強いて言えば、清水作品と山本作品が一番距離は近かったか……?)。  演奏された順番に、聴きながら思ったことなどを記しておくと、まず折笠作品は「典型的なテキストとしての音楽」といった趣を感じた。響きはまろやかなもので、複数の素材が重なり合い、線的に発展していく――思い起こしたのはピエール・ブーレーズの《弦楽のための本》。座った席が悪かったせいか、細部で何をやっているのかがわからず、もやもや~という感じで終わった。第二ヴァイオリン、ヴィオラは一生懸命弾いてるけど、音が全然聴こえない。作品解説によれば「『書法』の追及」が意図されているということだから「聴こえなくても良い」ってことなのかもしれない。4作品のなかでは最も伝統的な印象。  これに対して次の前田作品は「ポスト・ゲンダイオンガク風」という感じ。晦渋な響きが続くわけでも、特殊なことをやっているわけでもないが、調性に回帰してメロディを書くわけでもない。この手の音楽は、ものすごく乱暴な言い方をすれば「新しい印象主義音楽」とでも言っておくとしっくりくるのかもしれない。前半は少し退屈したが、後半で音楽の運動量が増えてきたあたりはとても楽しんだ。  3曲目の清水作品は、ポスト・セリエル的な語法をふんだんに取り入れた、彩り鮮やかなもの。指揮者は2人で、ポリテンポ。特殊奏法。さらに指揮者の片方は途中で指揮棒を放り投げる……などの演劇的要素も盛り込まれている。直感的なイメージとして「加速度」や「スピード」といった、速度を感じる音楽のように思った。ここまででは一番好きな作品。だが、私の貧しい耳では聴き取れない部分もあ

eX.13「フランコ・ドナトーニの初演作品を集めて」 @杉並公会堂小ホール

曲目 フランコ・ドナトーニ(全曲日本初演) Clair II [cl] (1999) Che [tuba] (1997) Duet no. 2 [2vn] (1995) Small [picc, cl, hrp] (1981) Small II [fl, vla, hrp] (1993) Luci [alto fl] (1995) Luci III [SQ] (1997) The Heart's Eye [SQ] (1980) 山根明季子(新作世界初演) Dots Collection No.05 ―フランコ・ドナトーニへのオマージュ― (2010) [fl, cl, tuba, hrp, SQ] 出演 多久潤一朗fl, 菊地秀夫 cl, 橋本晋哉 tuba, 松村多嘉代hrp, 辺見康孝・亀井庸州 vn, 安田貴裕vla, 多井智紀vc, 川島素晴cond  「eX.」は作曲家の川島素晴と山根亜季子が主宰する現代音楽コンサートのシリーズ。今回は今年が没後10年になるイタリアの作曲家、フランコ・ドナトーニの日本初演作品が特集だった。このシリーズに足を運ぶのは初めてだったが、次の演奏会も楽しみになるような興味深い企画だった。会場では細川俊夫や有馬純寿の姿を見かけ(ミーハーなので、そんなことでも興奮してしまいつつ)日本の現代音楽界の最先端を感じることができた。  ドナトーニの作品は「オートマティズム」という作曲技法によって書かれている。この技法、プログラムに寄せられた川島による解説によれば「既成の素材に基づく自動化されたシステムによる作曲」であるらしい。そこでは素材を法則によって変形させ、さらにその変形体を別な法則によって変形させて……という連続で楽曲ができあがる。このとき、楽曲は「恣意性の排除」が行われた状態となる。そして、生成された音列から三和音を抽出するなどのある種の「調整」が加えられることによって楽曲は完成を迎える。  こうして出来上がったドナトーニの楽曲は、川島が指摘するように現代音楽の典型的なイメージである「晦渋で不気味な音響」からは大きく距離をとっている。各楽器はベルカントのように響き、その美しい音色とともに発揮される技巧は聴く者の興奮を呼ぶだろう。独奏クラリネットのための作品《Clair II》は、その典型と言っても良いかもしれない。冒頭から何度

ニコラウス・コペルニクス『天体の回転について』

天体の回転について (岩波文庫 青 905-1) posted with amazlet at 10.03.16 コペルニクス 岩波書店 売り上げランキング: 63123 Amazon.co.jp で詳細を見る  いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらしたニコラウス・コペルニクスの『天体の回転について』。岩波文庫に収録されている日本語訳では、全6巻のうち、第1巻を訳出したものを読むことができる。2010年になって重版されたものであるが、旧漢字が使用されているため幾分読みにくい。しかし、日本語自体は読みやすいので、60ページほどしかない訳出部分は旧漢字に慣れてきた頃には読み終えてしまう。天動説から地動説へ。コペルニクスは旧来の宇宙観の間違いを指摘しながら「こうすれば、数学的/幾何学的に正しい天体の運動法則を導き出せる!」と言っているのだが、そこで否定される「旧来の宇宙論」のほうも興味深い。例えば季節によって惑星の大きさが異なって見える理屈を「離心円」(地球が、惑星の回転軸となる中心からちょっとズレたところに位置している、という説)によって説明されていたなど、いろいろと関心させられてしまう。  この文庫版の半分は、訳者による解説で占められているが、それがとても充実している。宇宙論の誕生から、コペルニクスに至るまでの変遷、その後の発展までが通史的に書かれており、大変勉強になる。また『天体の回転について』の出版に伴い、コペルニクスが当時の法王パウルス3世にあてた手紙もここには収められている。その内容は「ワスが突然、こんなことを言ったらみんなびっくりすると思うけども……」という大変気を使ったものだ。まぁ、なんか大変だったのだなぁ……と思う。何十年も新説を秘密にしつつ、晩年になって「えいやっ!」と出したコペルニクスは「慎重すぎる!」と仲間内からは非難されたらしいけれど、仕方が無いことである。その後、コペルニクスの説を擁護したジョルダーノ・ブルーノなんかは火刑に処せられてるのだし。 プトレマイオスによる巡行・逆行運動  「離心円」による惑星の運動についての説明はこのサイトが詳しい。コペルニクスの生涯については、アイルランド出身の作家、ジョン・バンヴィルが小説にしている *1 が、小説よりもコペルニクス自身が書いた論文のほうが面白いと思った。 *1 : ジョン・バンヴィル

渡辺一夫『渡辺一夫評論選 狂気について』

狂気について―渡辺一夫評論選 (岩波文庫) posted with amazlet at 10.03.14 渡辺 一夫 大江 健三郎 清水 徹 岩波書店 売り上げランキング: 79394 Amazon.co.jp で詳細を見る  渡辺一夫が、ラブレーの研究を始めたのは「何の内面的な必然性も私になく、希少価値をねらう不純な動機しかなかった」という衝撃的な告白が読める。大江健三郎などの文学者を育て、三島由紀夫にも尊敬された「日本のユマニスト」、偉い文学者である渡辺一夫がゆるやかで美しい文章でつづる各種のエッセイがとても面白かった。読書や本を買うことについて省察したものがとても良い。ビブリオフィリアの楽しみや悩みが、偉い先生であっても共通なのだな、と考えさせられる。 子供のパンツと靴下の代が、図らずも黄表紙赤表紙に化けることがある。えいっ! と思うのである。妻――いや女房は黙然としている。向うでもえいっ! と思うのであろう。僕も再びえいっ! と思う。別に喧嘩もしない。  そんなに本をたくさん買ってどうするの? そんなに読んでどうするの? と家族などから時折訪ねられることがある。そんなときは、読みたいんだから仕方ないじゃん、と答えるしかないのだが、黙然とされ「えいっ!」という具合に「仕方がないのだな……」と理解されることは、まあまあ幸せなことであると思う。  戦後直後に書かれ、人文主義的な道徳を参照しつつ、戦争の暗さについて書かれたものも感動的だ。「トーマス・マン『五つの証言』に寄せて」は、渡辺の師であった辰野隆に対する手紙である。そこでは渡辺は戦火のなかでマンの『五つの証言』を仏訳から訳していたことが告白されている。 戦局が不利になって将来いかなる悲惨な事態が起るか判らなくなりました時、原稿のままで一人でも多くの若い友人に読んでおいてもらいたいという気持が妄執に近いものになって現れてきました。それほど日本人に何としても判ってもらわねばならぬ尊い証言の数々が、マンの文章に含まれていると信じていたからであります。  その証言がどのようなものであるかは詳細には触れられていない。しかし、私が感動するのは、極限的な状況の中で発揮させられた「切実さ」の部分である。

水島新司『野球狂の詩』

野球狂の詩 (1) (講談社漫画文庫) posted with amazlet at 10.03.13 水島 新司 コミックス 売り上げランキング: 707661 Amazon.co.jp で詳細を見る  この「石版!」というブログ、もう4年近く続いているのだが、8割ぐらいを思いつきで書いているだけのブログであるため私が「『まんが道』は日本の『失われた時を求めて』」とか言っても誰も信じる人はいない。信じる人がいないのを良いことに今日もいい加減なことを書こうと思って「『まんが道』がプルーストなら、『野球狂の詩』はマジック・リアリズムじゃい!」とか言ってみたい。そう、水島新司は日本のガルシア=マルケスだったのである。突拍子もない想像力、純粋な愛、そして運命。50歳にして現役のプロ野球選手であり続ける岩田鉄五郎は、ホセ・アルカディオ・ブエンディーアの姿とも、アウレリャーノ・ブエンディーア大佐の姿とも重なるではないか!  以前ふと思い立って『男どアホウ甲子園』を全巻一気に購入して、呵成に読み込んだときも「水島新司、おそろしい想像力の持ち主だ……。『ドカベン』なんか可愛いもんだ。狂気としか思えない」と恐れおののいたものだ。なにしろ、ヤクザの倅とインテリ左翼と番長、それから松葉杖をつかないと歩けない障害者などが阪神狂いの男に従って甲子園を目指したりするのだから。そんな彼らにマトモな野球などできるはずがなく(大体、ヤクザの倅はすぐに日本刀を抜いたりするし)、途中で野球武者修行などと称して巡礼者のように全国を徒歩で旅するなどのストーリー展開は「野球漫画のストーリーライン」を大幅に逸脱している、と言って良い。かつて主人公に敗れたライバルが覆面を被って登場したりするし……。  しかし『野球狂の詩』での水島新司の想像力はそれ以上にすごかった。梨園の生まれで野球の才能もすごいスラッガーなどはまだ序の口。日本の球団でプレイすることを諦めたゴリラがメジャーで活躍する話(いくらなんでもメジャーが大らか過ぎる!)や、ケニアからきた黒人の青年がホーム・スチールをキメまくる話(いくらマサイ族でも足速すぎ!)など、今なら動物愛護やPC的にも問題がありそうな話がゴロゴロ。ゴリラはメジャーの過密スケジュールに悲鳴を上げ野球を止め、マサイ族は日本の空気が汚すぎて肺を悪くして再起不能になる、などのオチも社会批

山形孝夫『聖書の起源』

聖書の起源 (ちくま学芸文庫) posted with amazlet at 10.03.11 山形 孝夫 筑摩書房 売り上げランキング: 125064 Amazon.co.jp で詳細を見る 主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。/人の子とは何ものなのでしょう/あながたが思いやってくださるとは。/人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影  『聖書の起源』の冒頭に引用された『詩篇144』の一部を読んで、ハッとしてしまったのは、この短い文章にこめられたあまりにもはかない人間観についてである。キリスト教というと、荘厳な教会や厳粛な賛美歌のイメージに伴って、とにかく清らかで権威がありそうな固定観念を持っていたが、その原始にたどっていくと、このようなはかなさに出会ってしまう。それが驚きだったのだ。本書ではまず一連の『旧約聖書』から、砂漠の流浪の民である古代ユダヤ人たちの死生観や歴史を読み解こうとする。そこでは厳しい自然や、どこへ行っても他者でしかない民族のしんどさが抽出される。救済とはそのような厳しさから生まれてくるリアルな願いだったのだ。本書がおこなっている『旧約聖書』への意味づけはそのようなものだ。  一方『新約聖書』についての部分では、当時信仰されていた土俗的な治癒神信仰の系譜のなかにイエスを置き、物語の読み替えが行われている。そこでのイエスは迷える子羊を救うメシアとしてではなく、現世での病を治す身近な「病気治しの神様」とされている。イエス=メシアとなったのは、後世の伝承によって、また教会によって別な意味づけがおこなわれた結果である、というのだ。 あの驚異と不思議の治癒神イエスは、次第に精巧なドグマのキリスト像に仕上げられ、四世紀をすぎる頃には、癒しの宗教としての原書の姿を急速に失っていくことになる。  しかし、イエスが持っていた治癒神としての正確は、イエスから聖母マリアへと移って保存されることになる。この移行をキュベレ、イシュタル、アシュタロテ、イシス、アフロディテ……といった「太古の豊饒の女神(大地母神)」の変奏として意味づけているのが面白い。信仰が生まれ、どのように変化していくのか。その過程を詳細に描いた本書のストーリーは実に刺激的である。

平井浩編『ミクロコスモス 初期近代精神史研究 第1集 』

ミクロコスモス―初期近代精神史研究 第1集 (シリーズ・古典転生 別巻1 初期近代精神史研究 第 1集) posted with amazlet at 10.03.09 月曜社 売り上げランキング: 51638 Amazon.co.jp で詳細を見る  すでに各所で話題となっている『ミクロコスモス』の第1集を読了。編者である平井浩氏に関しては、私は親交のある id:la-danse さんのブログにものすごく厳しいコメントをする方……という(大変失礼な)知識しかなかったのだが、この場を借りて「このような素敵な本を編集していただいて、ありがとうございました!」という感謝の念を記しておきたい。元より「初期近代精神史」という分野について門外漢であるため、この本がどれだけ貴重なものなのか実際のところはよくわからないのだが(そもそもそういった学問的な価値の高さはまったく私には関係ない。門外漢だから)、とても面白かった。脳内で発火が起きること、多数 *1 。 (『ミクロコスモス』)の第一号は、現在の初期近代思想史研究の現場で、いかなる問題が論じられているのかを示す、奥行きの深い入門書となっていると思います。 http://twitter.com/adamtakahashi/status/8764272771 科学が自然哲学からテイク・オフする以前の初期近代の思想というのは、主題も方法も多様だったと思うのです。この論集を入門書と申したのは、その魅力的な世界を覗き見るための、(限定的ながらも)適切な入り口を幾つか提供してくれているのではないかと思ったからです。 http://twitter.com/adamtakahashi/status/8768488882  以上は『ミクロコスモス』が刊行される以前に id:la-danse さんこと、adamtakahashiさんからいただいた前情報からの引用。「魅力的な世界を除き見るための」「奥行きの深い入門書」とは言い得て妙である。私はこの本を読んで、15世紀~18世紀までの思想・科学世界の豊かさに一発で魅了されてしまった。一般向けの、浅く広く、流れのみを拾うような類の入門書のスタイルではない。しかし「論文と研究ノート」のコーナーでは、世界を観察するための定点としてテーマが設定され、そのポイントから深めに「世界を除き見る」ことがで

金沢21世紀美術館 オラファー・エリアソン

 建築について語ることが何かオシャレな行為のような気がして、意識的に避けている……というのは建前で本当のところは、よくわからないので語れない(語る必要もない)というのが実情だ。よって、金沢21世紀美術館がどのようなものであったかについては、極めて主観的な感想を述べるしかなくなる。とはいえ、そのような感想を述べたくなる建物がある、というのも素敵なことなんじゃなかろうか。こうして整然と並べられた椅子の様子を確認するだけで、ちょっとした快感に襲われる空間なんてなかなかない。  世界は生活をおこなうことによって、じょじょに乱れていく。本棚や食器棚やガスレンジの周りがいつのまにか乱れてしまっている状態を思い起こされたい。世界の秩序はじょじょに失われていく。それは生活する世界の宿命である。だから、掃除をしたり、整理をしたり、という行為は、秩序を立て直すためだ、と言って良いだろう。油で汚れた皿の一枚一枚を洗い上げ、食器棚へと戻したときの感覚は、秩序を回復した瞬間の癒える感覚なのだ。  しかし、この金沢21世紀美術館の整然さは、決して汚れたり、乱れたりすることがないんじゃないか、なんてことを錯覚させるような気がする。    美術館ではオラファー・エリアソンのインスタレーションを体験した。どの作品も人間の五感を刺激するものだったが、大部分が視覚に影響を与えるものだった。そこでは普段無意識に認識してしまっている視覚の連続性が、断絶や段階のない変化を受けることによって、意識の俎上にあがってくる。エリアソンの作品を体験することによって覚える素朴な驚きは、我々が日常的に眼で見た世界に対する驚きであるようにも思った。あと本日25歳になりました。

集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#5 オネッティ『はかない人生』『井戸』『ハコボと他者』

はかない人生 井戸 ハコボと他者 (ラテンアメリカの文学 (5)) posted with amazlet at 10.03.02 オネッティ 集英社 売り上げランキング: 471213 Amazon.co.jp で詳細を見る  集英社「ラテンアメリカの文学」第5巻は、ウルグアイのフアン・カルロス・オネッティ(1909-1994)の長篇『はかない人生』(1950)と『井戸』(1939)『ハコボと他者』(1960)という2本の中篇を収録。ここまでこのシリーズを読んでいて、独裁者やジャングルといったラテンアメリカっぽい題材のものが多かったけれども、オネッティの作品は「ラテンアメリカにもいろんなタイプの作家がいるのだな。マジックリアリズムばかりじゃないのだな」と思わせるものである。とにかく暗くて、救いがない、陰鬱なトーンが全体を支配している。  「肌が茶色で、ヤニ汚れがついた歯並びはひどくて、服もめちゃくちゃ汚い、昔の西部劇に出てくる子悪人」のようなオッサンがいろいろと愉快でとんでもないことをやる……みたいな愉しい想像力の発露はここには存在しない。『はかない人生』などはとことん実存主義文学風であるし、オネッティのデビュー作(500冊刷って全然売れなかったらしい)『井戸』などは中原昌也のグチみたいな趣だ。「コイツは他の作家と一味違うぜ……!」という感じがする――しかし、それはそれ、これはこれ、といったところで、私はあんまりこれらの作品を楽しむことができなかった。読んだ時期が悪かったのかもしれない。満ち足りた生活をする者向けではない気がする。