スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

9月, 2010の投稿を表示しています

プルタルコス『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』

エジプト神イシスとオシリスの伝説について (岩波文庫) posted with amazlet at 10.09.28 プルタルコス 岩波書店 売り上げランキング: 82783 Amazon.co.jp で詳細を見る  プルタルコスは紀元1世紀中ごろに生まれて2世紀初頭ぐらいまで生きたギリシャの人(ローマ時代のギリシャ人、ということになる)。つい最近になって重版された『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』は、この人が書いたエッセイ集『倫理論集(モラリア)』からの抜粋で、エジプトの神々についてまとめられた書物として現存しているもののなかでは、これが最古のものなのだそう。私のなかのエジプトの神様の知識といえば、サン・ラーであるとか、ジョジョ第3部であるとか(シルバー・チャリオッツ!!プラス、アヌビス神!!)、ものすごく断片的なものだったから、とても面白かった。そういえば、先日モーツァルトの『魔笛』を見たときもオシリスとイシスがセリフに出てきていたなあ(ザラストロの神殿では、オシリスとイシスが崇められている)。  とはいえ、こうしたエジプト神話は前22世紀には成立していたものだそうで、プルタルコスがこうした神々のストーリーを書き記した頃には、現代の人がプルタルコスの本を読むぐらいの時間が経過しているのだから、彼がまとめた話がどこまで本来のエジプトの神話であるのかはかなり怪しい、とのこと。しかも、プルタルコスは(ときおりかなり強引に)エジプトの神々をギリシャの神々に読み替えており、いろいろあることないこと付け加えているようなのだ *1 。だから、この本はエジプトの神話をプルタルコスが紹介している本としてではなく、プルタルコスによるエジプト神話解釈、という風に読むのが適切なように思えてくる。  こうした視点からこの本を読んでいくと実にスリリングなのが、ペルシャ神話、エジプト神話、ギリシャ神話を比較しながら分析していく部分で(P.85から)、これはもう文化人類学者みたいな仕事ぶりだと思われた。ここでプルタルコスは、エウリピデスの言葉「善と悪とが別々にあるのではなく、両方が混ざり合ってちょうどいい加減になる」を借りてきて、彼が考える世界の秩序観を提示するのだが、さまざまな神話はこのような世界観を表現する共通のアナロジーであるように扱われる。このへんがとても面白かった。  

たけみた先生の翻訳によるルーマン『新しい上司』を読んだよ!

新しい上司:イントロ - たけみたの脱社会学日記 新しい上司:第一節 - たけみたの脱社会学日記 新しい上司:第二節 - たけみたの脱社会学日記 新しい上司:第三節 - たけみたの脱社会学日記   id:takemita さんによるルーマン私訳シリーズより1962年の『新しい上司』が公開されています。『行政学における機能概念』についての感想 *1 のときにもチラッと書きましたが、『新しい上司』は具体的な事例について記述がおこなわれているとても取っ付きやすい論文で「ルーマンって、こんな議論もしていたんだなあ」というのが驚きでした。最初の問題提起としては「人事異動で新しい上司がやってくると、組織の生産性が一時的に落ちたりするよね。でも、それってなんでだろう?」なんていうのが掲げられていて、スッと入り込める感じ(なにせ、会社員だから自分の例と照らし合わせることができるしね)。  社会にはいろんな役割があって、組織なんっていうのも役割の集合体みたいなものだ。そこには「友だち」だとか「息子」だとか明文化されていない役割もあれば、「部長」だとか「係長」だとか明文化されている役割もあるだろう。で、建前的には組織というのは、後者の明文化された役割が集まってできたものだ。明文化された役割っていうのは、その役割の人がどういった権限をもっているのか、どういった仕事をすればいいのか、というのがちゃんと決まっているから、もし人事異動で部長が変わっても、その部長が有能でも無能でも「役割」自体には影響がない。こうした役割があることで個人にひっぱられずにシステムは存続するように見える。  でも、実際にはそうじゃない。部長が変われば組織が変わったりもするし、なんか初めのほうはバタバタしちゃって上手く業務がわからなかったりする。営業の課長やってた人がいきなりシステム部門の課長になったりしたら、上司が現場のことをなにも知らないから色々教えてあげなくちゃいけなかったりするし、当然システム部門の人が新しい課長がどんな人かなんか知らないかったりするわけ。「えーっと、神奈川支社の鎌倉営業所で四年間課長やってまして」なんて言われても、知らないよ、というお話。そんなだから新しい課長を受け入れたほうでは「前の課長にはいろいろと頼みやすかったけど、今度の課長にはなんか頼みにくいよ

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』

太陽の都 (岩波文庫) posted with amazlet at 10.09.23 トマーゾ カンパネッラ 岩波書店 売り上げランキング: 141992 Amazon.co.jp で詳細を見る  後期ルネサンスを代表する思想家であるトンマーゾ・カンパネッラの『太陽の都』を読みました。この人は、生涯の大半を獄中で過ごした、というハードコア・パンクな方なんですが、この本についても獄中で書かれたものだそうです。当時、スペインと教会との二重支配に苦しんでいた南イタリアの独立運動に参画していたのがバレて捕まったカンパネッラは、死刑を逃れるために狂気を装うことによって終身刑を手に入れる。『太陽の都』はそのときの服役生活中に書かれています(1602年)。政治犯として捕まるぐらいですから、カンパネッラが腹に一物どころか二物も三物も抱えていたことは明らかですが『太陽の都』で語られる理想国家には、そうした彼の理想が投射されているように思われます。  本の内容は、コロンブスの新大陸発見の船旅に航海士として同行したジェノヴァ人が、ふとしたことで立ち寄ったタプロバーナ島(スマトラ島、またはセイロン島)に存在していた素晴らしい国「太陽の都」の様子を、聖ヨハネ騎士修道会の騎士に物語る、というもの。そこでは都市の建築物、政治、風俗、思想などが語られるんですが、これがどれもものすごく面白い。  まず都市の建築についてですが、これは同心円状に建てられた7層の壁に囲まれる円形都市になっていることが描写されます。そして、その壁には博物学的な知が描かれていて(壁ごとに書かれている知識の種類・分類が違う)、太陽の都の市民は壁のまわりを歩いているだけで学習ができる、という風になっているのです。こうした仕組みが、記憶術 *1 的に興味深いものであることは言うまでもありません。ライナルド・ペルジーニの『哲学的建築』でもまず言及されるのはこの書物のことでした *2 。しかし、これ以上に面白かったのは「性生活」についての章で。優秀な人間が生まれることが国家にとってなにより重要、という方針から太陽の都では徹底的なセックス・コントロールがおこなわれるのです。まるで男女ともに「生む機械」として考えられているかのよう。男女がセックスをする時間は、占星術によって生まれてくる子どもにとって最も良い時間を決定され、決められた相

トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』

トマス・ピンチョン全小説 メイスン&ディクスン(上) (Thomas Pynchon Complete Collection) posted with amazlet at 10.09.21 トマス・ピンチョン 新潮社 売り上げランキング: 104365 Amazon.co.jp で詳細を見る トマス・ピンチョン全小説 メイスン&ディクスン(下) (Thomas Pynchon Complete Collection) posted with amazlet at 10.09.21 トマス・ピンチョン 新潮社 売り上げランキング: 89737 Amazon.co.jp で詳細を見る  読書中の途中経過についてはちょこちょこと書いてましたが、読了したので改めてエントリを残しておきます。1000ページ超、約3週間ほどかけて読む長い読書でしたが、それだけ時間をかけて読む価値はある、素晴らしい小説だと思いました。誰にでもオススメできるわけではないですが、面白い小話が好きで気の長い方なら「気がついたときには読み終わっている」という感じで読めるかと。とくに『メイスン&ディクスン』で驚かされるのは、これだけむちゃくちゃな話をいっぱい書いていながら、最終的には「良い話」でまとめてしまうところでした。これまでに翻訳のあるピンチョン作品は『スロー・ラーナー』以外全部読んでいますが、こうした後味の良さからもピンチョンでは一番好きな作品にあげても良いぐらい。  作品は三部にわかれていて、第一部がメイスン&ディクスンの最初の仕事「南アフリカにいって金星の日面通過を観測せよ」についての話、第二部がメイスン&ディクスンがアメリカにわたって「ペンシルヴァニアとメリーランドのあいだの境界線をひけ」についての話。第三部はふたつの大仕事を終えた2人の男がその後どうしたのか、というエピローグとなっています。一番ボリュームがある第二部はやはりなかなか読むのがしんどかったです。しかし、秘密結社やら、人造鴨やら、風水撲滅を狙うイエズス会に狙われていると妄想する狂った中国人風水師やらが登場して、ピンチョンの小説に頻出する「闇組織との対立」が何度もはじまりそうになりつつも、メイスン&ディクスンは測量仕事に専念する。だから、ストーリーは迷うことなく進んでいる印象があります。かならず本筋に戻る、とい

ケヴィン・スミス監督作品『コップ・アウト 刑事(デカ)した奴ら』

コップ・アウト 刑事(デカ)した奴ら (ブルース・ウィリス 出演) [DVD] posted with amazlet at 10.09.19 Amazon.co.jp で詳細を見る  映画オタクの黒人刑事(トレイシー・モーガン)と、なにかとついてない白人刑事(ブルース・ウィリス)が盗まれたプレミア野球カードをめぐって奮闘するアクション・コメディ映画『コップ・アウト』を観てきました。冒頭から下品なギャグが連発で、日曜洋画劇場で放送されるのは無理そうな感じでしたが、過剰なほどに挿入される小ネタの数々がとても面白くて良かったです。ついてない刑事をブルース・ウィリスが演じる、という時点で「どこのジョン・マクレーンですか」という感じなんですが、刑事コンビがトラブルに巻き込まれる大本になっているのはメキシコ系のギャング、という設定で「メキシコ系ギャングは教会にいがち」というのをなぞっている感じも素敵。  いろいろあってメキシコ系ギャングが人質にしているメキシコ人女性(英語がわからない)を保護する刑事コンビなんですが、ブルース・ウィリスがそのメキシコ人女性に自分の身の上話を滔々と打ち明けるシーンがあった。「わかれた女房に引き取られた娘がさ、今度結婚するんだよ……」と刑事は語る。でも、英語がわからないメキシコ人女性にはその話は通じない。このシーンもデジャヴ感満載なんだけれども、良いな、と思いました。言葉が通じない(=応答が返ってこない)対象に対して、洗いざらい本音を打ち明ける。こうした告白の形式は、すごくプロテスタントっぽい気がした。相手が言葉すら通じず、ゆえに応答もしない、というのは一種の究極的な他者なわけ。でも、だからこそ、そういった他者に対して本音を打ち明けられる、という逆説はあるよね。また、発話、という行為が本質的にひとりよがりな行為であることもこうしたシーンは示唆しているように思った。  サントラが良かったので、CDが出てないみたいなのが残念(化学調味料っぽく、すっごいテンションがあげてくれるハードロックやらヒップホップやらで映画が彩られています)。

『Newton』10月号が面白かったよ!

Newton (ニュートン) 2010年 10月号 [雑誌] posted with amazlet at 10.09.19 ニュートンプレス (2010-08-26) Amazon.co.jp で詳細を見る  気がついたら定期的にチェックしてたまに買っている雑誌が『ギター・マガジン』と『Newton』だけになっており、もはや自分が何者であるのか、と疑いたくなってくるのだが(ギタリストでも、理系でもない)、今月の『Newton』は面白かった。第一特集は「無からはじまった宇宙誕生の1秒間」というタイトルで宇宙関連モノ。この宇宙が無から生まれる、という仮説が理論的にまことしやかに語られるようになったのは1980年代にはいってからなんだって。こうした宇宙論の学説の変遷は、なかなか面白い。  1900年ごろまで宇宙は昔からずっと宇宙で変化してない! というのが主流で、1929年にハッブルという人が「どうやら宇宙は膨らんでってるらしいぞ」と言い始め、第二次世界大戦が終わった後ぐらいにガモフという人が「なんか昔の宇宙は超高温で超高密度だったみたいだ」と唱え、1980年代になって佐藤勝彦 *1 とアラン・グースという人がそれぞれ独自に「宇宙は無から生じて、その後、一気に大きくなったんだ」とか言うようになったんだと。これを世代にあてはめると私の曾祖父が生まれた頃の人は「宇宙はずっと変わらん!」だったし、私の祖父が生まれたころの人は「宇宙は膨らんでるらしい!」だったし、私の父の代になると「ビッグバン宇宙っつーのがあったらしいよ」となって、ようやく私の世代になって「最初は無からはじまったんだってさ、ヤバくね?」という感じになる。4世代でこんなに宇宙論が変わるなんて、きっと人類史上稀に見る100年間だったにちがいない、20世紀ってヤツは。  この特集で特別に「へえ~」と思ったのは2点ある。まず1番目に「ビッグバン」というのはどうやら宇宙の状態を示す言葉であって、現象のことではないらしい。だからビッグバンで宇宙ができた、というのは言い方としてはおかしいことになるみたい。あくまでビッグバンというのは「超高温・超高密度な宇宙」のこと。じゃあ、宇宙はどのようにして生まれたか、っていう話になるんだけれども、これは「計算不能」なんだって。これが2番目に驚いたこと。物理学者が計算に使える「理性の限界

マルティン・カルテネッカーによるラッヘンマンの弦楽四重奏曲の解説 #1

Lachenmann: Grido/Gran Torso posted with amazlet at 10.09.16 Arditti String Quartet Kairos (2008-01-14) 売り上げランキング: 184918 Amazon.co.jp で詳細を見る  気が向いたのでヘルムート・ラッヘンマンの弦楽四重奏曲全集についてきたマルティン・カルテネッカー(Martin Kaltenecker。誰かは知らない)による楽曲解説を訳してみる。  《グラン・トルソ》が書かれたのは、ラッヘンマンが「調性的作品のもつ機械的かつ効果的な状態にある音を基礎としながら、素材概念をそれ自体から自由にし、その構造的・形式的なヒエラルキーを引き出そうという試み」をおこなった作品を書いてから数年後だった。この試みは「楽器によるミュージック・コンクレート」という言葉を定義することでもあった。そこでは、電子的なノイズ・ミュージックによるアプローチをなしに、生楽器を使ってその楽器の構造や特性を考えることから生み出された演奏法が用いられる――たとえば、楽器を叩いたり、引っかいたり、押したり、といった具合に、だ。《グラン・トルソ》においては「弓のストロークがもはや音程と関係する音響的な経験としてではなく、むしろ音という製造物が生まれる瞬間の摩擦音になる」。しかし、この「弓によって圧力をかけることへの意識」は主題的な機能をも持っている。なぜならそこでは「圧力をかけること」が、かつての旋律のモチーフや中心的なリズムが演奏されたのと同じ役割を担っているからである。すなわち、それは類似や対比といった修辞法によって等位の関係とみなされるシステムを変革し、置き換えることを可能とする。だから、ラッヘンマンにとっては、ピッチカートとコル・レーニョは「同じ衝撃音という原理における変数」として扱われるのだ――そこでは「鳴り響くハーモニクス」が連結されることによって、それらは「互いに関係を結ぶ」のだが、同時に「はっきりと分けられていることを暗示したり」もする。  しかし、この具体性を主題にするという試みは楽器の演奏法を極限まで広く拡張していかない限り、早々に限界に達してしまう。本質的に言えば、それは楽器との闘いによって可能となることがらであろう。そこでラッヘンマンはまったく新しい「解剖学」を創造し

読売日本交響楽団第496回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

曲目 指揮:下野竜也 ホルン:ラデク・バボラーク 《下野プロデュース・ヒンデミット・プログラムV》 ヒンデミット/歌劇〈本日のニュース〉序曲 R.シュトラウス/メタモルフォーゼン(変容、23の独奏弦楽器のための習作) R.シュトラウス/ホルン協奏曲第2番 ヒンデミット/ウェーバーの主題による交響的変容  読売日本交響楽団の9月定期は正指揮者、下野竜也によるヒンデミットを中心としたプログラム。カップリングにリヒャルト・シュトラウスの作品が折り込まれていたが、本日初めに演奏された《本日のニュース》序曲は、ヒトラーが聴いて激怒したオペラからの作品でヒンデミットがナチスに圧力をかけられたり、「頽廃芸術」と批判される最初のきっかけともなった曲であり、その当時、リヒャルトはと言えばナチスの芸術監督みたいなポストについていたわけだから「なんだか深いなあ」と思わせる構成になっている。いつもはあんまり読むところがない演奏会の冊子も片山杜秀による「日本の作曲家とヒンデミットの関係」についての読み応えがある記事が掲載されていた。「ささのはさらさら~」という歌い出しの超絶有名曲「たなばたさま」の作曲家はヒンデミットの弟子だったんだって(へえ~)。ウィーン・フィルが初来日したときの指揮者はヒンデミットだったんだって(へえ~)。  しかし、肝心のヒンデミットの演奏のほうはなんだか微妙な出来なのであった。下野竜也が振るヒンデミットを聴くのは初めてだったけれども、もしかしてこの人の芸風とヒンデミットの作風というのが徹底的に食い合わせが悪いんじゃないか、と不安になる。新即物主義の代表、と言われるぐらいだから、ヒンデミットってクールなイメージがあるじゃないですか。テンポをあんまり揺らさず、クールに演奏しきることがひとつの様式美、っつーか。でも、下野竜也のヒンデミットは違うのね。メインに演奏された《ウェーバーの主題による交響的変容》も、同じ旋律が繰り返されるところがあったらちょっとずつストリンジェンドしていく感じ。それが効果的なら良かったんだけれど、ヒンデミットの場合、単に落ち着かない演奏に聴こえてしまう。全体的に上手く整理できていない感じがし、第3楽章後半のフルートの長いソロにいたっては「半拍、ズレてない?」と思って聴いていた。あ、でもこの曲の肝のひとつである第2楽章のジャズ・フーガは、キマっていたの

FEN(Far East Network)@キッド・アイラック・アート・ホール

 先日、大友良英さん( id:otomojamjam )より拙ブログをご紹介いただいてから未だに『大友良英のJAMJAM日記』経由でブログに来てくださる方が多いのであるが、そうした「友達の輪!」的なつながりとは関係なく、ONJOを活動休止している現在、大友さんが最も力を入れている(らしい)バンド、FENのライヴがあったので行ってみた。ライヴを観る前にちょっと下調べしたところによれば、バンド名の通り極東の国々の4人のミュージシャンがバンドを結成したのは2008年の4月。お披露目はフランスのマルセイユだったそう……といったところはすべて大友さんのブログにありますので上のほうにあるテキストボックスに「FEN」と入力してですね、検索かけてみてください。ちなみにバンド名に関するお話は、こちら(↓)が詳しいですよ。 FEN - 大友良英のJAMJAM日記  しかし、文字情報だけではこのバンドがどのような音楽をやっているのかどうかはまったく想像がつかないのであった。ここで老婆心ながら、楽器編成などについて記載を行っておくと以下のようになる(本日のライヴでもらったチケットに記載から引用。後述するけれど、ここでメンバーの国籍が表記されているのではなく、住んでいる都市が表記されているのは重要だと思われる)。 大友良英(perc,guitar,turntable 東京) YanJun(electronics, voice 北京) Yuen Cheewai(laptop シンガポール) Ryu Hankil(inside-clock ソウル)  本日のライヴは2部に分かれ、前半は上記のメンバーの順番の通りにソロ演奏があって、後半にバンドとしての演奏があった。振り返ってみると、前半でソロがあったから「ああ、このバンドはこういうメンバーによるバンドなんだな」というのが分かって、後半のセットにスムーズに入っていけたような気がする。いわば、前半は後半の布石として効果的に機能していたのだ。そこで気がついたのは「よくこんなに色が違うメンバーが集まったな」ということ。たとえば演奏形態と出てくる音についてもバラバラだ。  4人もいれば、ひとりぐらい大友と同じようにギターを「ギューン!」と言わせるような人がいてもおかしくないのだが、見事に違う。大友は様々な楽器と楽器でないものを「演奏」し、ヤンジュンは楽器に

たけみた先生の翻訳によるルーマン『行政学における機能概念』を読んだよ!

id:takemita 先生によるルーマン私訳シリーズ 『行政学における機能概念』 を読みました。こちらは、内容よりも文章がとっても難しいことで有名な社会学者、でありながら、やたらと言及されまくっていて「なんか読まなきゃいけないんじゃないか」と思わせられる社会学者であるところの二クラス・ルーマン大先生によるデビュー論文なんだって。デビュー作にはすべてが宿る、なんていうのは、ジンクスかと思っていたんですが、このデビュー作は結構難しい。後々の難しい感じがこの時点ですでに感じられ、さながらピンチョンが『V.』でデビューしたときのよう。やはり最初からルーマンはルーマンであったのか……と思いました。有識者によれば「後期ルーマンで悩むより、初期ルーマンをたくさん読んだほうがルーマン理解は深まる」とのことでしたけれども、いきなりコレはちょっとハードかも。訳文からはわかりやすい日本語に訳そうという感じのプロジェクト杉田玄白っぽい感触が伝わってくるんですが、その感触からスピーディな感じで読み進めるとまったく頭に入ってこない。これは素敵なライフハック……じゃない。でも、面白かったです。見なれない論理学や、数学の用語系を乗り越えると吉。よーく読むと、なるほど社会システム論はこういうことを言い換えたものだったのかな~、とか思ったりする。 さて、この論文の内容について軽く触れておきたいと思うのですが、一言で言ってしまうと「タイトルどおり」っていうことになります。「機能/関数(Funktion)」という概念をつかって何を論じるか、についてのお話。「機能っていう言葉の使い方が人によってバラバラだから、ここでひとつまとめようぜ」という問題を扱っている。そこでは、それまでに「機能」という言葉を使って何が表現されてきたのか、にも触れられるのだが「機能って言うとなんか上手いこと言った風になる」ってだけで何の意味もなかったりするよな(『文学的効果』)などと批判的だ。 それでは、この論文でルーマンは「機能概念」をどう定義するのか。「機能の機能」とはなんなのか。ルーマンの結論から触れておくと「パースペクティヴをひとつ定め、それを参照点として、複数の可能性のあいだの交換を統制すること」だ、ということになる。はい、これだけだと何言ってるかわからない。ルーマンがあげる具体例は以下。

キリンジ/BUOYANCY

BUOYANCY posted with amazlet at 10.09.13 キリンジ コロムビアミュージックエンタテインメント (2010-09-01) 売り上げランキング: 162 Amazon.co.jp で詳細を見る くるりの新譜と同時期にキリンジの新譜も出ているわけですが、同じメガネとメガネじゃない人のバンド、とはいえ、くるりとキリンジのあいだに何らかの関連性があるわけではなく、くるりは思い入れいっぱいに聴けるのに対して、キリンジに対してはまったく思い入れなどなく、すごくフラットな気持ちで聴けてしまう。だが、こうした職人的な音楽は、そういうした気持ちで聴くのに適しているようにも思われる……などといったら、往年のキリンジ・ファンの方には怒られてしまうでしょうか。いやはや、おそろしく手堅い、っつー印象のアルバムで、前作『7』で省みられたようなAOR感はすっかりナリをひそめ、言うなれば鬱っぽい感じさえある、クールなアルバムとなっています。帯には「キリンジ史上最高傑作」という煽りがありますが「それはどうかな……」と思わされる一方で、ガチガチに構築された世界観が一挙に目の前に提示される感じはやはりすごい。相変わらず何を言っているのかわからない、何かを言っていそうで、何も言っていなさそうな歌詞は健在。

モーツァルト《魔笛》(実相寺昭雄演出)

円谷プロ協力によりカネゴンやらピグモンやらメトロン星人やらシーボーズやらがゲスト出演する《魔笛》の公演を観ました。オペラを生で鑑賞するのは初めてで、新国立劇場のオペラパレスに入るのも初めてだったんですが、オペラというのはオーケストラとはまた違った文化を持っているのだなあ、と思いました。今回は二期会が主催の公演だったんですが、やっぱり団体のファンみたいな人や出演者の知り合いの人みたいなの人が多くて、なんっつーかハイソな雰囲気(空気感はヅカのファンにも通ずる気がした)。劇場は4階席の左端で舞台の一部が見えない安い席だったんですが(5000円)、音には問題なかったです。ビリビリくるような音はこないけれど、迫力は感じる。これぐらいの値段でこれぐらいの音ならもっとオペラを聴きにきたい、と思いました。 さて、実相寺昭雄の演出については、日曜の朝にやってるアニメーションの世界でオペラを解釈みたいな感じで、色遣いなんかが目に毒な感じでした。ただ、日本語公演の強みなんでしょうが、セリフの部分にむちゃくちゃギャグを盛り込んでいてとても面白かったです。私もオペラ初心者だったので、これはありがたかった。ぜんぜん、あらすじなども知らずに白紙状態でいったんですけれど置いてきぼりにならない。そもそも、人を置いてきぼりにするような複雑な話でもないんですが(勧善懲悪もの、ですし)。しかし、エジプトの神々がでてきたり、ザラストロと夜の女王がそれぞれ光と闇の二元論的な世界を象徴しているところが興味深かった。修行を経て、徳を高めることによって、神の叡智を授かったうえ、愛もゲットだぜ! っていうのがあるんだけれども、そういうの18世紀っぽいなあ、と思いました。この話の思想的な背景をちゃんと調べてみたら面白そうです。 出演者のなかではパパゲーノ役の人がとても良かった。

くるり/言葉にならない、笑顔を見せてくれよ

言葉にならない、笑顔をみせてくれよ(初回限定盤)(DVD付) posted with amazlet at 10.09.11 くるり くるりとユーミン ビクターエンタテインメント (2010-09-08) 売り上げランキング: 9 Amazon.co.jp で詳細を見る  先日、自分のなかでくるりリバイバルみたいなものが来ておりまして、「ばらの花」だの「ロックンロール」だの「花の水鉄砲」だのを繰り返し聴いていたことがあったんですが、こうしたリバイバルがやってくるということ自体、その音楽が自分にとって過去に通りすぎてしまった音楽になっていることを意味しているように思われつつも、しかし、その音楽を聴けば聴くほど実際にはろくでもなかったハズである学生時代の生活が美しいもののように回想されてきもし、私のなかで一時期のくるりの音楽が「美しい青春時代(虚構)」をフラッシュバックさせてくれるトリガーとなっていることを意識したのでした。前置きばかりが長くなっておりますが、私にとって、くるり、というバンドはそういうものである、ということを書いておきたかったのです。  さて、そんな意識を持ちつつ聴いた、くるりの新譜。これはもう素晴らしかった。自分のなかでこのバンドへの気持ちが離れてしまったのは『ワルツを踊れ』以降の流れが「自分の好きだったくるりと、なんか違うぞ、おい」と思ってしまったからだった、とするならば、いろいろやってきて、今回はもっとシンプルに音楽を作ってみた、と言わば原点回帰的な感じ制作されたこのアルバムから「俺が好きだったくるりの音」を感じたのは必然と言えましょう。大村達身脱退以降のアルバムでは、まず間違いなく好きな音ですよ、これは。不要なものといえば、タナソーが書いているライナーノーツぐらいなものです。このライナーノーツもなかなか興味深い事実が書かれている、とはいえ、はっきり言ってどうでもよろしい。あまり深いこと考えずに、好きな音を愉しむべきなのです。  ただ、原点回帰的な趣きがあるとはいえ、それは単なる過去の焼き直しではない。そこがやっぱり、信頼できるロック・バンドたるゆえん、というか。捏造された○○音頭から、沖縄民謡へと跳躍する「東京レレレのレ」に象徴される、岸田繁のネジれたユーモアはこれまで以上に鋭く感じられますし、「街」以来ではないか、と思われるささくれ立ったよう

古澤健監督作品『making of LOVE』

 話題作。すごく面白い、という評判を聞いて期待していたのですが期待を上回る面白さでした! 一言でいうと「単純なようですごく奥行きのある世界観の映画だ」と思いました。古澤監督が演じる映画監督ふるさわたけしが途中で制作を断念した映画のメイキング映像……として物語がはじまってからの序盤は、ふるさわの矮小でコミカルな人間性に何度も笑いを誘われ、ここでまず心を掴まれる。彼の行動は、なにかドン・キホーテ的にも思われるのですが、そうした「ヤりたい、ケド、ヤれない」といった面白い要素に食いついていくうちに、どこか別な場所にたどり着いてしまう。たとえばそれはザ・メタフィクション的な入れ子構造にしてもそうですし、映画の観客に「アナタの見ているのは『映画』なのですよ」という暗示をかけてくる視点の問題にしても「なにか」を感じさせてきます。そこに鮮やかなテクニックがあるように思われました。あと、古澤監督の作品ではノベライズ版『ドッペルゲンガー』しか知らなかったのですが(映画を見るのは今回がはじめてでした)それぞれの作品が作者をポイントに繋がっている感じもします。  途中で挿入される青春のクリシェみたいな映像もとてもキラキラしていて良かったです。恋人同士がソフトクリームを持って、噴水のところに座っている――そんな光景、現実には見たことないんですが、でも良かった。観覧車乗ったりさぁ……ニコニコしながら夜の街を走り回ったりさぁ……そういうのもすごくメルヘン的に思えるんだけれど、良いんだよ! すごく幸せな気分になるじゃないですか!! そういうメルヘンチックなカップルが現実のどこかにいたら、俺も幸せだよ!!!(絶叫) 今月25日からは名古屋で上映がはじまるそうです。

DUO3.0、二周目はiPhoneと連携して活用

DUO 3.0 posted with amazlet at 10.09.07 鈴木 陽一 アイシーピー 売り上げランキング: 35 Amazon.co.jp で詳細を見る なんかそこそこ仕事があったり、情報処理系の資格の勉強しなきゃだったり、遊んだり、本読んだりで忙しい毎日を過ごしていたのですが、なんとかDUO3.0を一周読み終えました。学生時代も途中で飽きてやらなくなったので、これはちょっと快挙。本気になった会社員をナメるなよ、と誰かに対してよくわからない攻撃心をむき出しにしたい気持ちになります。 ある種のご託宣によれば「単語帳は一冊をトコトンやりつくせ」とのことだったので、すぐさま二周目へ。二周目は覚えてなかった単語を集めて単語カード作ったりするぞ! と心に決めていたんだけど、せっかくなのでiPhoneで単語カードを作りました。 使っているのは「単語カード」というそのままのアプリ(無料版)。有料版はいろんな単語カードをダウンロードできるらしいけれど、私のように自分で一から作っていく人には、無料版で充分だと思う。良いね~、この勉強してる感。ホントに役に立つかどうかは定かではないのだが、ひとつひとつ何かを積み上げていく感じが楽しくなってくる。

ピンチョン『メイスン&ディクスン』を読むためのヒント/メモ #4

トマス・ピンチョン全小説 メイスン&ディクスン(下) (Thomas Pynchon Complete Collection) posted with amazlet at 10.09.04 トマス・ピンチョン 新潮社 売り上げランキング: 7529 Amazon.co.jp で詳細を見る  下巻にはいりまして本日は『メイスン&ディクスン』におけるテクノロジーについて。そもそも18世紀の天文学、あるいは測量術が話の大きなキーワードになっているのが本作なのだから、テクノロジーの話が出てくるのは当然なのだが、本作を読んでいて面白いのがここで語られる18世紀のテクノロジーがその当時の最先端として語られつつ、捏造されたテクノロジーと混じり合い、一種のファンタジーを形づくっているところであろう。たとえば、前のエントリーでも触れた機械じかけの鴨もそのひとつの例だろう。下巻ではディクスンが500キロ以上あろうかという鉄製の風呂釜を磁力を用いた秘技によって軽々と運ぶ、という描写があり、これがとても面白かった。その原理たるや、地球が発する磁力を線として認識し、その線のうえへと平行に風呂釜を載せることによって可能となる、という驚くべきもの。ディクスンにはその磁線が目視できるというのだからさらに驚愕だ。ここにはひとつ、技術を極めれば奇跡のような現象をおこせる、という技術への期待(?)があるように思える。ジョルダーノ・ブルーノが記憶術を体得することによって、世界を司る第一者へと近づくことができる、と考えたような。

iPhone4買いました日記

 このエントリはiPhoneで書いております。流行りモノとはほぼ無縁、無縁すぎて人が寄りつかないこのブログにも時代の波がやってきた、という感じでしょうか。純正Bluetoothキーボードも購入しまして、これはもうノートパソコンを持ち歩くほどでもないが、出先でこまごまとした作業がしたい、といった私のようなタイプの人間にはもってこいのアイテムの組み合わせでございますね。ノートパソコンを買おうかと思ってんたんですが、iPhoneとBluetoothキーボードがあれば、別にいらないや、と思いました。今のところ、まったく不満がない。最高。寝転がってもブログが書けるぜ!  ってな感じでアプリを使いこなしたりカッコ良い使い方をしているわけではないのですが、ひとつ、これは便利だなあ、というのが出先で資格の勉強をしているときなんかに超強力なツールになること。現在、10月にある「情報セキュリティスペシャリスト」という資格の勉強をしているんですが、市販のテキストじゃ、この資格に対応できるような知識がカバーできないんですよ。私の場合、実務でセキュリティ関連の知識を使うわけではないので、仕事で覚えたりもしない。そこで頼りになるのがインターネットなわけ。  勉強をしていてわからないことがあったりすると、すぐiPhoneで調べる。調べるときははてなブックマークのアプリを使ってブックマークしておくと、家のPCでもそのページをすぐ参照することができる……。これはケータイ電話時代には考えられない勉強法だな、と思いました。これまでにインターネットで調べながら資格の勉強をするとなると、PCの前でやることが要求されました。そこから解放された、このフリーダム感! 冷房がついていないこの俺の部屋からの解放! 格段に効率があがりました。 Apple Wireless Keyboard (JIS) MC184J/A posted with amazlet at 10.09.03 アップル (2009-10-31) 売り上げランキング: 252 Amazon.co.jp で詳細を見る