スキップしてメイン コンテンツに移動

荒木飛呂彦『スティール・ボール・ラン』(22)






 もはや「またもや、スゴい展開になっている……」と絶句するしかない最新刊。果たしてここまでスゴい話になるとは、ラクダに乗ったアブドゥルがサボテンに突っ込んでリタイアした頃には誰も予想ができなかったに違いない。ジャイロ&ジョニィの主人公コンビ対大統領の直接対決が始まってからコミックスでいうと3巻目に達したが、闘いの緊迫感はまったく衰えることなく続いている。「このコマは、どういった状況を描いているのか(どういう動きのコマなのか)」という理解が不可能な描写が連続するものの、読みながら震えてしまうのだった。



ここから話す事はとても重要なことだ/それだけを話す/わたしの行動は「私利私欲」でやった事ではない



 ここにきて大統領ははっきりと自分の目的について口にしている。ジョジョ第6部最後の敵であったプッチ神父がそうであったように、大統領の厄介さとはこのような点にあるのだろう。プッチ神父は全人類の幸福を実現する「天国へ行く方法」のために闘い、大統領はアメリカ合衆国のために闘っている。これは第五部までの最後の敵とは明確に異なる。彼らが闘う理由は皆、利己的なものであった。それが最も明確なのは第四部の吉良だろうか(彼は自らの生活の平穏のために、かつ、湧き上がってくる欲求を解消するために殺人を犯した)。しかし、プッチ神父や大統領はいずれも大義を振りかざしながら主人公たちの前に現れるのである。





 大義のための犠牲は不可欠である。その犠牲によってより大きな幸福が得られるのだとしたら、その犠牲は正当化される――敵の言い分は、このようなものだ。第7部が凄まじいのは、こうした大義を前にした主人公が、自らの意思を試される、といった点だろう(ジョニィは大統領のような大義をもたない。彼がレースに参加したのは、下半身不随という障害から回復できるかもしれない、という可能性を信じた結果であり、それは利己的な動機付けである)。自らの意思は、敵の大義よりも正しいのか。ジョニィはこうした問いを突きつけられ、そして選択を迫られる。通常の少年漫画ならば、勝利した者が正しい、という論理が働くだろう。しかし、ここでの闘いは、パワーや頭脳といった次元ではなく、倫理的な軸に移行する。





 自分と敵、どちらが正しいのか。これはとても難しい問題だ。さらに大統領はもし自分(大統領)が正しいと認めれば、その代わりに○○というプレミアムをつけよう、という提案をする。これが選択を迫られているジョニィを一層悩ませることとなるのだが、一方で問題が別の視点へと置き換えられるものでもあろう。「大統領の正しさを認めたとき、果たして彼は本当に○○というプレミアムを支払うのだろうか」とジョニィは不信に思う。問題の焦点が、大統領の信用問題へと移るのだ。そこでは、大義と意思とのあいだにおける正当性の問題は一旦保留され、大統領が信用できるかどうかの判断は彼の人格面が問われることでなされようとする。





 これがとても興味深いのは、大義と意思自体(第一の問い)が問われていないにも関わらず、迂回したところにある問いかけ(第二の問い)が、大義と意思とのどちらに正当性があるのか、を決定してしまう、という状況であるからだ。この状況は一見すると不条理に思われるかもしれない(第一の問いと第二の問いとのあいだには直接的な関連性はないように思われる)。しかし、第一の問いを一生懸命考えても答えはでないんじゃね、という風に考えれば、第二の問いへと迂回するのはなんだか仕方ないようにも思われるのだった。





 いずれにせよ、この巻ではまだ最終的な選択はおこなわれていない。ジョニィがどういった選択をおこなうのか、続きに期待したいと思う。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

土井善晴 『おいしいもののまわり』

おいしいもののまわり posted with amazlet at 16.02.28 土井 善晴 グラフィック社 売り上げランキング: 8,222 Amazon.co.jpで詳細を見る NHKの料理番組でお馴染みの料理研究家、土井善晴による随筆を読む。調理方法や食材だけでなく食器や料理道具など、日本人の食全般について綴ったものなのだが、素晴らしい本だった。食を通じて、生活や社会への反省を促すような内容である。テレビでのあの物腰おだやかで、優しい土井先生の雰囲気とは違った、厳しいことも書かれている。土井先生が料理において感覚や感性を重要視していることが特に印象的だ。 例えば調理法にしても今や様々なレシピがインターネットや本を通じて簡単に手に入り、文字化・情報化・数値化・標準化されている。それらの情報に従えば、そこそこの料理ができあがる。それはとても便利な世の中ではあるけれど、その情報に従うだけでいれば(自分で見たり、聞いたり、感じたりしなくなってしまうから)感覚が鈍ってしまうことに注意しなさい、と土井先生は書いている。これは 尹雄大さんの著作『体の知性を取り戻す』 の内容と重なる部分があると思った。 本書における、日本の伝統が忘れらさられようとしているという危惧と、日本の伝統は素晴らしいという賛辞について、わたしは一概には賛成できない部分があるけれど(ここで取り上げられている「日本人の伝統」は、日本人が単一の民族によって成り立っている、という幻想に寄りかかっている)多くの人に読んでほしい一冊だ。 とにかく至言が満載なのだ。個人的なハイライトは「おひつご飯のおいしさ考」という章。ここでは、なぜ電子ジャーには保温機能がついているのか、を問うなかで日本人が持っている「炊き立て神話」を批判的に捉え 「そろそろご飯が温かければ良いという思い込みは、やめても良いのではないかと思っている」 という提案がされている。これを読んでわたしは電撃に打たれたかのような気分になった。たしかに冷めていても美味しいご飯はある。電子ジャーのなかで保温されているご飯の自明性に疑問を投げかけることは、食をめぐる哲学的な問いのように思える。

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」