綿矢りさの凶悪さとは、笑顔で近づきながらみぞおちあたりをナイフで刺されるような恐ろしさであって以前『蹴りたい背中』を読んだときも、もはや振り返りたくもない思春期の自意識過剰っぷりについて掘り返されてしまい「ライフはゼロよっ!」というクリシェでもってその痛さをお伝えしたくなった。その凶悪さは『夢を与える』において、とことんチープな「美少女主人公の成り上がりから転落へ」というストーリーで発揮される。狙っているのか、天然なのかよくわからない表現の稚拙さは、その痛さのクスグリなのか、地の文と主人公の意識の流れがリニアに接続され、視点がぼやける最中、なんとか読み続けられるギリギリのバランス感でもって破綻が予告され、緩やかにページのめくる手を駆動させる。この筆致を作家が意識をもって統御しているのだとしたら、間違いなく綿矢りさは天才だと思うし、無意識なら大天才、と言ったところ。現代的な心象を文学的に描くものではなく、とてもありふれた心象を風俗を描くようにして綴る作家として、優れた作品を世に送り出しているなあ……と思われました。
正直なところ、大きな物語のなかに盛り込まれたひとつひとつのシーケンスはやや散漫であまり効果的な感じには思われません。これって結局なんだったの? これによって何か物語に変化がおこったの? とひとつひとつ首をかしげたいほどです(それゆえ、物語がすごくダルい感じになっている)。端的に言ってしまえば、「与えられた期待」と「本当に自分がやりたいこと」が見事にコンフリクトを起こした結果の暴走、そして破綻、というお話でしかない。「なんだよ、結局自分探し小説かよ」とため息をつきたくなる感じではあるのですが、ここまでひどく、チープな破綻は、そのチープさによって現代的に輝く。今や芸能人でなくとも、誰もがソーシャルな力によって私刑を受ける可能性がある世の中です。その不気味さや嫌らしさを本作は予言しているのでは、とさえ思われます。
しかし、本当に嫌な部分は、破綻まで進んでいくところよりも、実は栄光を手に入れるまでの道のりではないか、とも思うのですね。とくに嫌なのは、主人公が家庭のトラブルによって「もう自分にはいくところがない(誰からも必要されていないのではないか)」という不安(これも安いっ!)に陥る箇所で差し伸べられる、クラスメートの素朴な男子からの手です。このシーケンスは絶望のなかで振り返られ、さらに主人公の絶望を煽る、という伏線になりますが、そこで描かれる淡い好意は『耳すま』的な小っ恥ずかしさであり、脳内で月島雫がタランテラを踊りそうな具合でした。身悶えするような自然讃歌や人工物への批判的な態度もまた少しずつライフを削っていく。もう最高です。「あえて」とか、そういうキャンプな態度でなく、綿矢りさの作品を今後も読みたいと思いました。ライフを削られるために読む小説があっても良いじゃない……。
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