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首都を歩こう《Tokyo Walkers》第2回(沢井 - 奥多摩)



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流浪の散歩サークル《Tokyo Walkers》*1の第2回イベントが2011年12月17日に開催されました。今回は、青梅線の沢井駅から奥多摩までを歩く山攻めのコースです。雲ひとつない快晴のなか午前11時から歩き始めました。




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国道411号にでるとすぐに澤乃井の酒造工場があります。大きなタンクがいくつもあって、あたりには日本酒の香りが漂う。いきなり寄り道したくなる気持ちを抑えて道を進みます。





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道中は特別なサムシングがあるわけでもなく、ただ左手に多摩川が流れ、ああ、山だな、川だな、こういうところで生活している人もいるのだな、と思っているうちに次の駅の御岳につきました。





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このあたりから歩道がなくなって山感が増してきます。





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川井駅近くの電チラポイント(電車がチラッと見えるポイント)。





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渓谷を渡る巨大な橋。絶景です。





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この日はたくさんの市民ランナーの方に追い抜かされたり、すれ違ったりしました。青梅マラソンのコースになっているからなのでしょうか。どこから走ってきているのかわかりませんが、すごくストイックな感じ。





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良い時間になってきたので、休憩。かわい寿司さんはお寿司屋さんなのに、店の外に出してあるメニューには「とんかつ定食」、「海老フライ定食」、「かきフライ定食」など定食屋さん感を全面に打ち出した記載があり、これはちょっとアレな店か……?(喫茶店なのに、うどんがメニューに書いてある系の)と心配になりました。私はえびフライ定食を注文。出てきたものを見て驚愕。15センチはあろうかという海老が3本、千切りキャベツのうえに鎮座ましまし、それにあら汁と小付がついてくる超ヴォリューム。フライはサクサクで、良い意味で期待を裏切るクオリティ。なのに980円と心配になってくる価格設定。食後はコーヒーもでてくる! お寿司さんなのに。





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近所にあればちょいちょい行きたくなるようなお店でした。お店の人もとても良い人。ビールも飲んじゃったりなんかして、たっぷり休憩し、また歩き始めました。





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歩道もなくなってしまい、車に気をつけながら長く、緩やかな坂道を上ります。





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途中でみつかった謎の廃屋。こういう建物がいくつか点在していて、なんとも言えない気持ちになります。なかからチェーンソーをもった殺人鬼がでてきてもおかしくない感じ。





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見慣れないコンビニらしきお店もまた趣深し。





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ダムを発見しました。白丸ダムというダムらしい。無類のダム好きであるメンバーが突入し、それに続けといわんばかりにダム撮影会がはじまります。





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変色したコンクリート、錆び付いた金属、なによりもその巨大さ。こうした要素が愛ダム心をくすぐります。





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体力的な都合により、待機部隊としてひとり残ったメンバー。まるで天狗。





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ダムから3キロほど歩き、本日の目的のひとつとして設定していた温泉に到着。湯船にゆっくりと浸かって、足の疲れをほぐしました。寒いなか歩いていたせいか、足よりも肩に疲れがきていた気がします。歩いていて肩こりってなんか変。





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湯上がりにはもちろんビールを飲んで、奥多摩まで歩いて帰りました。この日歩いたのは約12キロ。初回3人でスタートしたイベントも、いきなり8人に増えました。次回は2月ごろ、下町を歩いてもんじゃを食べたりするイベントになりそうです。職業・経歴・年齢などを問いません、普段は歩かないところを歩きながら和やかに会話したりすることに興味がある方、Facebookでメンバー募集をおこなっています。各イベントへの参加は都度任意ですのでお気軽にグループ参加申請を出してみてください。






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