レイモンド・カーヴァー『ファイアズ(炎)』

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その夜の十一時、私はまたカウチに寝支度をした。こんどはスチュアートは何も言わなかった。私をじっと見て、唇の裏で舌を丸め、それから廊下を歩いてベッドルームに消える。(『足もとに流れる深い川』より)



 これまでそれなりに本を読んできたけれど「唇の裏で舌を丸め」という描写に出会ったのは初めてだったと思う。これが登場人物の苛立ちとかモヤモヤした感じとかがグッと迫ってくるような描写であったから、とてもびっくりしてしまった。レイモンド・カーヴァーという人の細やかで現実的な想像力はものすごいものがあるなぁ、と感じる部分である。言われれば「あぁ、わかる。そういうクセがある人っているよな」と思うけれど、言われない限り人が「唇の裏で舌を丸め」ているしぐさを頭のなかで思い浮かべることなんてないもんな。


 この本に収録されているエッセイのなかで、カーヴァーが自分の、というか短編小説家の“小説作法”について書いているところがある。曰く、短編小説家の仕事とは日常のなかで「『ちらっと捉えたもの』に自分の有する力の一切を注ぎ込む」ことなのだそうな。それは明確な文章を以ってして描かれなければならない。そのことが細部に生命を与える。あまりに正確な文章は「時には素っ気なく響くかもしれない。しかし案ずることはない。正しく使用されていれば、それらの言葉はあらゆる音を奏でることができるのだ」――とカーヴァーは言う。何故、彼が「唇の裏で舌を丸め」と書けたのか、これらのエッセイは充分に納得できる答えを提供してくれている。


 ところで、こういうカーヴァーの想像力は、トマス・ピンチョンのような作家が持つ想像力とまったく正反対の位置にいるのでは、などと思うのだがどうだろうか。書いている作品の内容もまったく異なるけれど、そこにはミクロへと収斂されていくまなざしと、マクロへと拡大していくまなざしがあるように思われる。もちろん、ピンチョン(あとスティーヴ・エリクソンとか)は後者のほうだ。


 ピンチョンの短編小説が「あんまり……」というのを考えると二つのまなざしを持つことは不可能に近いことなのかもしれない、とも思う。これは話の長さの問題ではない。ヘミングウェイは長編も短編も面白くて「やっぱ、ノーベル賞とってる人はすげぇなぁ!」と興奮してしまうけれど、長編も短編も描写をするものを捉える想像のまなざしは同じものだったように感じられる。短編のつもりで長編を書いている、というか。





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