プラトン『国家』、と管理社会

0 件のコメント



国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)








国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)







 プラトンの師であったソクラテスの哲学問答を記した『国家』はとてもシンプルな本である。内容は、といえば、ソクラテスのもとに集まる者が彼に対して自らの疑問をぶつけ、そして彼が回答する。また逆に、ソクラテスが彼に語りかけるものに対して疑問をぶつける場合もある。ひとつの回答からは、また新たな疑問が生まれ、それに対しての回答があり……というやりとりが上下巻に渡って繰り広げられるのである。対話はらせんのような軌跡を描いて運動していく。人によっては「この議論はいったいどこに向かっているのだろう……」という内容を退屈に思われるかもしれない。


 社会学者の北田暁大はこの本について「根源的な質問(例えば、『何故、人を殺してはいけないのか』など)に対してはこのような方法で考えなければ、答える方法がない」というようなことを言っていた。北田の言葉をまるごと借りてしまうようになるけれども、私もそのように感じる。しかし、そのような方法を用いて、丁寧に丁寧に議論を重ねたとしても、答えることのできない議論の終着点があること(それは世界の根源的な未規定性、と言い換えることができる)も改めて感じた。


 議論の主題はタイトルにもあるように“国家”である。が、私はその副主題ともいえる「正義とは何か?どうあるべきか?」という問題について惹かれながら読んだ(ちなみに『正義』は前1世紀に編纂されたプラトン全集で、この本の副題として添えられている)。


 信念のようにソクラテスは「正義は必ず、不正よりも“善いもの”である」と繰り返し語る。しかし、「何が“善いもの”で、何が“悪しきもの”か」と言った問いに対しては上手く答えられていない。「滅ぼしたり損なったりするものはすべて悪いものであり、保全し益するものは善いもの」というだけである――この“答え”が便宜的なものであることは、すぐに露見してしまう、と思う。誰かを滅ぼしたり損なったりするものが、時には保全し益するものに変わってしまうことは日常的にある、そんな例を考えてもらうだけでここでは充分だろう。そのようにしてソクラテスは「議論の終着点」に辿り着く。


 「結局、答えられてないじゃないか!」という不納得の声をあげるつもりはない。ソクラテス自身が最初からそのような位置から対話を行っている。「『正義とは○○というものである』と最終的な答えを出すことはできないけれど、ここでは××ということにして話をし、(便宜的なものだけれど)『どうしたら良い国家が作れるか』について話し合いましょうよ」という態度が敷かれている。これはとても合理的だ、と私は思う(少なくとも、すべての議論を投げ出すよりも前向きである)。繰り返しになってしまうけれど、そのような態度をもってしか、我々はより良い世界へと向かうことはできない。




  • 管理社会について


 「善い国家を作る方法」のひとつとしてソクラテスは、教育の重要性について説いている。この部分でミメーシス(模倣)という概念についての言及がある*1。ソクラテスは「(とくにこどもの)学習はミメーシスによって行われる」という。環境のなかに放り込まれるこどもは、周囲の環境を模倣しながら学習を行っていくのだ。だから、我々大人は慎重にならなくてはいけない――こどもが悪しきものを魂のなかに取り込まないように、と。


 そこでは物語、詩、音楽……といったあらゆるものが気配りの対象とされている。国家の守護者となるべき人間を育てるためには、美しい作品、美しい言葉だけから影響を受けるような環境を作らなくてはならない。しかし、これはどこかの教育委員会、どこかのPTA、あるいは、どこかのテレビコメンテーターが言いそうな話である。ソクラテスの目指す理想の国家には、管理社会的な厳格な規律が敷かれている、という風に思う。


 最近になって「管理社会化」という現象についての批判が目立っているが、その「静かな恐ろしさ」についてはさておき、人が生きる環境を厳しく管理していくことを進めていけば「望まれる人間を育てること」は“ある程度”可能である、と思う。しかし、やはりそれは“ある程度”である。どのような管理を敷いたとしても、社会から「悪しきもの」が生まれえる可能性をゼロにすることは不可能だろう――例えば、こどもから暴力描写があるマンガやマリリン・マンソンのCDを取り上げたとしても、いつかどこかでまた母親の首を切り落とすようなこどもが生まれてくる可能性が無くなることはない。可能性は、環境のどこかで必ず生まれてくる。その偶発性を社会は管理することができないのである。


 社会が環境から考えられる「影響因子」を取り除いたにも関わらず、社会の中から「悪しきもの」が生まれたとき、おそらく社会は2つの反応を返すのではないだろうか――ひとつは「これだけ管理しているのに、どうしてこんな事件が起こってしまったのだろうか?」という素朴で、前向きな疑問である。もうひとつの反応は、その疑問から生まれた至極“真っ当な”ものである。その反応とは「これはきっと管理の仕方が拙かったのだ。二度と事件を繰り返さないように、もっと管理を強くしていかなくてはいけない!」というものだ。


 例えば、現在、コンビニには「成人向け雑誌コーナー」が作られ、(一応)“青少年”を有害な出版物から遠ざける、という管理がなされている。その管理が至らなくなった場合、そもそも販売経路を経ってしまえば良いのではないか、コンビニから“悪しき影響”を根絶しなくてはいけないのではないか、というような声があがるだろう――もし、それでもダメなら……田舎道にあるエロ本自販機を撤廃する、とか。「悪しき環境に人間をおくと、必ず人間は悪いことをする」という不信ベースでは、そのようなイタチごっこが生まれるのが目に見えている。また、管理する権力がどんどん増大していったとき、本来“善きもの”を育てるはずの「管理」が自由を奪う“悪しき権力”の側へと向かってしまうことも忘れてはならない。このとき、悪しき影響を取り去るはずの権力自身が、悪しき影響になってしまう。これは管理社会の致命的な欠陥であろう(私としては、既に我々の社会がそのような限界地点に辿り着いてしまっているようにも思う)。


 対話の鬼のようだったソクラテスが、何故、厳格な管理を求めたのか(具体的に彼は悪い神話を語るような詩人を監督すべきだ、とまで言っている)、私にはうまく納得することができない。ソクラテスであれば、悪しき影響(というよりも悪しき方向に向かう可能性もあり得る選択肢)を環境に残した上で、他者を主体化することによって「悪い選択」を抑止する、という方法も考えられたのではないだろうか、と思うのである。対話とは、そのようなものを目指したものともなるはずだ。そのとき目指される理想の国家とは偶発性を認めつつ、そして他者への信頼ベースで稼動するものとも言えるだろう。




*1:アドルノのミメーシスとは若干違った意味合いになる





0 件のコメント :

コメントを投稿