フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『罪と罰』

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罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)








罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)







 一般に物語を前に進ませるために、人物は読者に理解されうるものとして造型される。例えば、そこで描かれる冷酷な人物は雨の日に仔犬を拾ったりしないし、温厚な人物が老婆を斧で叩き殺したり、といったことは小説中に起こらない。汚れた仔犬を胸に抱いて帰るのは温厚な人物であるし、斧の刃についた血を布でふき取るのは冷酷な人物のやることである。たとえ、仔犬を拾った人物が次の日老婆を惨殺したとしても、そのような相反する、統合されえぬ二面性は描かれた瞬間にすぐさま「二面性のある人物」として統合され、理解されてしまう(何かの小説新人賞の総評で、その容易さについて批判的に、また挑戦的な意見を出していたのは町田康だったと思う)。そのとき登場人物から“生き生きとしたもの”が失われるのは、それがはっきりと「フィクション上のもの」として理解されてしまうせいにちがいない。


 しかし、ドストエフスキーの登場人物はすごく“生き生き”している(だから、やっぱりこの作家は偉いし、とんでもない、と改めて感じてしまった)。そこでは一人の人間が立体的に描かれる。主人公の友人、ラズミーヒンは「温厚な、真面目な人物」として登場するのだが、決して一面的に捉えきれる「堅物」ではなく、酔っ払って大騒ぎした次の日に自分の醜態を大いに羞じもするし、激情的になることもある。しかし、かもし出される“生き生き感”は、その面数の問題ではない。それは「固まった面」ではなく、今にも溶けてドロドロと流れ出てしまうゼリー状の立体(自分でもそんなものが存在するかどうか分からないけど)みたいに描かれてる感じというか……。


 「人の性格ってよくわかんねぇ!けど、大概、人間ってこんなものだよな」とも思いました。





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