スキップしてメイン コンテンツに移動

イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #5




Giordano Bruno and the Hermetic Tradition (Routledge Classics)
Frances Yates
Routledge
売り上げランキング: 36713



今回から第2章「フィチーノの『ポイマンドレス』と『アスクレピウス』」に入っていきたいと思います。第1章は細かく見すぎて、もともと誰向けのものなのかよく分からないこの企画がますます「誰が得するんだ」感を強めてしまったので、すこしペースをあげるぞ!(宣言) さて、この章はフィチーノが翻訳した『ポイマンドレス』(彼が訳したヘルメス文書の14巻分に与えたタイトル)から重要な部分を要約して、フィチーノがどのような註釈をつけていたのか、を確認する章になっています。その内容ですが結構トんでいて、かなり面白い。かなりニューエイジ感やカルト感が高まってくるため、この話をブログに書いていたら7次元宇宙と更新できる人たちからコンタクトされてしまうのではないか、とドキドキしてしまうところです。





ここでイェイツは本題に入る前にいくつかヘルメス文書全体で持つトーンのようなものについて説明を加えています。前の章でも触れられた通り、ヘルメス文書は大部分が1世紀~3世紀に渡って(おそらくさまざまなギリシャ人によって)書かれた偽エジプト文書なのですね。ですからあちこちに矛盾があったり、齟齬があったりしているわけです。しかし、ヘルメス文書すべてがもっている要素はある。それは、個々の魂が啓示をもとめ、直観を通して神に近づくことで宇宙全体を理解する、というような宗教体験についてです。また、地上世界は星と惑星によって支配されている、という占星術的な宇宙体系も基本的な世界観としてもっている。





イェイツはフェステュジェール(Festugière。読みについてはid:la-danseさんに教えていただきました)をひきながら、この世界観も2つのタイプに分けられるのだ、と言います。どちらもグノーシス主義なのですが、一方は悲観的なグノーシス、もう一方は楽観的なグノーシスである、と。前者においては、物質世界が邪悪な星々の影響で満たされており、人々は可能な限りそうした悪いものと関係することを避けなければならない、人々は輝ける魂を持ち悪しき物質世界から飛び立ち、惑星の天球へと昇るべきであ~る(非物質的神の世界であるそこが本当のホームなんだよ!)という二元論が考えられていました。書いててかなりヤバい、まるでサン・ラかコバイア星人みたい! という感じが最高ですね。これに対して楽観的なグノーシスはほとんどその逆です。世界は神的なもので満たされており、神の命によって大地は生きて動いており、星は神の動物で、太陽は神のパワーによって燃え盛っている。自然(Nature 本性なのかも?)において悪い部分なんかない。何故なら世界のすべてが神だからである、とこんな風。悲観的グノーシスがサン・ラならば、こちらはマイケル・ジャクソンだ! と血走った目で言うことができるかもしれません。





イェイツがこの章で要約をあげているヘルメス文書の部分は次の5つです。




  1. エジプトの創世記(部分的には楽観的グノーシスだが、部分的に二元論的グノーシスがまじっている)

  2. エジプトの新生(二元論的)

  3. エジプトの意識への宇宙の反映(楽観的)

  4. 自然と人間についてのエジプトの哲学:大地の律動(楽観的)

  5. エジプトの宗教(楽観的)


「1.」は、ほとんどそのまんま。ヘルメス・トリスメギストスが神の知性であるところのポイマンドレスと出会い、異常な宗教体験のなかで世界の創世について教わる、という話です。ここでヘルメスは超能力を授けられ、人々を正しい方向に導くよう説教をはじめる。フィチーノはこれを「うわっ、創世記そっくりじゃん! すげぇ! モーゼと同じこといってる!」という具合に驚いて注釈をつけていました。この関心は後年も続き、彼は『プラトン神学』という本のなかで「ヘルメス・トリスメギストスはモーゼだったかもしれない」とまで述べているのだとか。ただし、もちろんモーゼの創世記と、エジプトの創世記にはたくさんの違いがあります。





「2.」はヘルメスの息子であるタトが父に対して新生の原理について教えを請う話です。これは世界の幻想に対しての意識を強くしようとして、最後の儀式の準備をしていたところなんですが「ねえねえ、おとうさん。どうやって人間は生まれてくるの?」式の対話なんですね。ヘルメス曰く、人間はまず神によって叡智を授けられた非物質的なものとして誕生するのですが、肉体を得た段階で12の大罪を負うことになり(キリスト教より5つも多い!)、人間はそれに対応する12の徳によって、その罪を打ち消していかねばならんのだよ、とのこと。これに対してフィチーノは、大罪と徳の対応を整理していたようですが、ところどころ紐づけを忘れてしまった部分がある、とイェイツは指摘しています。





「3.」はヘルメスと神の知性との対話です。ここでは、ひたすら宇宙最高、神最高、世界は神、世界は永遠、世界はひとつ、みんな滅びない、という世界観が語られます(楽観的グノーシスだけに)。すべてが神の一部であり、神の内部にあるのだが、それは一か所に固定されているわけではなく、常に動いている。けれども、世界を理解するには自分が神の境地にでも達するしか方法はない。その境地に立ちさえすれば、もはや神は見えないものじゃない! これをフィチーノは単なる短い要約、みたいに扱ったのだそうです。イェイツが言うとおり「3.」の世界観は「1.」や「2.」とことなっていますよね。





「4.」はふたたびヘルメスとタトの対話になります。ここでは神は人間に知性と言葉という「不死と同じぐらい価値のある才能」を授けた、とか。世界の不滅性が語られる。ここでは人間もまた神の一部ですから、死んでも死なないのです。こうして書いてしまうと阿呆のようですが、死とは単に、それまでその存在を構成していたつなぎ目がほどかれるだけであって、存在を構成していた要素は消失せず、要素から再び存在が生み出される、という風に説明がなされます。世界のすべてはこのスクラップ&ビルドによって運動しており、大地でさえも動いている、とヘルメスは言います。しかし、これもフィチーノによれば単なる要約以上のものではない、ということです。





「5.」は、ヘルメスとアスクレピウス、タト、ハモン(ここではじめてでてきた名前かな)がエジプトの寺にあつまり、神秘経験をしてしまう、という話です。神の愛がその聖なる場所を包み、神はヘルメスの口を借りて語り始める……という恐山みたいな状況。ここも世界はひとつで、すべては天上とつながっている、ということが説明されています。また人間は地上の生き物では最も偉い(半分は神から力をもらってるので)。ただ、神は天上に第二の神を想像しており、それぞれに役割を与えて地上を統括しようとしたんだとか、神様は36人おり、それらは黄道帯の10度ずつに位置がきまっていて地上を支配してるんだよ、と占星術的なところにも触れられています。また、このなかには『嘆き(または黙示録)』と呼ばれている部分があります。これも呼び名のママなんですけれども、エジプトの終末の日、みたいな話で。どこかで神様がみんなエジプトを見放してしまうと、信仰なんか無駄になってしまって、悪徳が栄える日がきてしまう……けれども神は最終的にはどっかでそれらをすべて一掃してしまい、また新しく善良な世界を再創造するんだよ、という話です。なお、この部分についてはフィチーノはコメントを残していないらしい、とのこと。





こういうモノがルネサンス期にはヨーロッパには広がって、それがルネサンスの魔術の復興を促した、というのは前章でも見たとおりです。この章の最後でイェイツはシエナのドゥオモにあるヘルメスの壁画をとりあげ、当時、ヘルメスが高い精神的なポジションに祭り上げられていたことを指摘しています。これがその壁画。





f:id:Geheimagent:20110902224106j:image





左のターバンをまいてるのがモーゼ、右側で変な三角帽子をかぶっているのがヘルメスです。これをみるとどっちが偉い人物なのか一目瞭然ですね。この当時、ヘルメスはこれぐらい偉大だと思われていたことがここには反映されている、とイェイツは言います。しかもこれはイタリア・ルネサンスにとどまらず、16・17世紀にわたってヨーロッパ全体に広まっていく……というところで第2章はおしまいです。おつかれさまでした。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...