メランヒトンにおける福音書と哲学

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Melanchthon: Orations on Philosophy and Education (Cambridge Texts in the History of Philosophy)
Melanchthon
Cambridge University Press
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引き続き、メランヒトンの演説集のお話。ここに収録されている「On the distinction between the Gospel and philosophy」という演説は、メランヒトンの考える世界観が、不可知的な神の領域と、可知的な領域の二階建て構造になっていることを示唆するものだと思いました。彼は前者の手がかりとして、福音書を置き、後者には哲学(とくにアリストテレスの)を置いている。しかし、メランヒトンは福音書と哲学を完全に切り分けているわけではありません。むしろ、福音書と哲学とではまったく教えるものが違うという解釈を否定することがこの演説の目論みにはあるようです。

まず彼は福音書と哲学とが重なる領域として、道徳を挙げている。道徳哲学は市民的道徳において、まさに神による法律である、と彼は言います。しかし、道徳哲学や権力者によって制定された法が、福音書の教えと食い違う面もあることも彼は認めている。この違いが、道徳というカテゴリーにおける哲学と福音書の違いとして現れます。メランヒトンにおいてあくまで哲学は目に見え、人間の理性で処理が可能な世界の道徳を教えるものであり、福音書は神の意志(救済や永遠の生を約束する)を教えてくれるものとして区別されます。

この区別は、自然哲学と道徳哲学とが併置されることでもう少し明確になるでしょう。メランヒトンは、天体の運行は神によって設定されたものであるとして、それを学ぶ学問に自然哲学のなかの天文学を置きます。そして、メランヒトンは天体の運行と同様に、人間の精神の原因と結果の関係(○○されたら、人は××という風に感じる、とか。たぶん)が神によって設定されたもので、道徳哲学はこれを教えるものだと言うのです。

演説の終盤でメランヒトンは、アウグスティヌスのようにギリシャの哲学者をまるでキリスト教の信仰をもっていたかのように解釈する見方を批判しています(キリストが生まれる前の哲学者が福音書を知りえるわけがありません)。しかし、哲学者たちの時代にも市民生活がおこなわれていたわけですから、道徳のようなものはキリスト教者と共有しているとも言う。

そして、さらに興味深い点は「キリストはなにをおこなったか」を示した部分です。メランヒトンはキリストが神の言葉を伝えることで、新しい道徳や法律を世に示したわけではないと言います。そうした道徳や法律と言ったものは、キリスト以前にもすでに存在していたわけですから、改めてキリストがなにかをする必要はない。この考え方は、神の意志は可知的な世界に常に介入しているわけではなく、最初の創造のあとは自動運用されている感じを想起させもします。

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