スキップしてメイン コンテンツに移動

自叙伝によるカルダーノの解剖、そしてある女性研究者の肖像(榎本恵美子 『天才カルダーノの肖像: ルネサンスの自叙伝、占星術、夢解釈』)

ジローラモ・カルダーノの名前は、一般的に知られている人物とは言えないだろう。彼が生きたルネサンスの思想や科学を扱った文献では頻繁に言及されているものの、あくまで個人的な読書歴のなかでの話だけれど、それ以外の領域では、数学の本を読んでいたら四次方程式の解法を示した人物としてでてきたことがあるぐらい。医師であり、占星術師であり、数学者であり、自然哲学者……こうした様々な肩書きで扱われるカルダーノは、ダ=ヴィンチの多彩さが引き合いにだされるようなルネサンス的知識人の典型として考えられる。当ブログではカルダーノを以下のエントリーで扱っている。


前者は彼自身による自叙伝、後者は思想史家による研究書についての感想だ。これらの本を読んだとき興味深く思われたのは、カルダーノという人物の不可解な(分裂症的とも言えそうな)パーソナリティーだった。自叙伝において身の上の不幸さ・恵まれていなさについて愚痴をこぼす一方で、自らの業績について誇り、「俺様スゴい具合」のアピールもふんだんにまぶしている。この奇妙な性格に惹かれているのはグラフトンも同じなのかもしれない。『カルダーノのコスモス』で描かれている彼の姿は、占星術と医術を自らの宣伝のために戦略的に用いる狡猾な人間として移る。守護霊と語り合い、星辰をコントロールする神秘家的なカルダーノの姿は、現代においては一種の「山師」とさえ受け取られる。もちろん、だからこそ惹かれるものがあるのだけれど。

しかし、『天才カルダーノの肖像』は、そうした「山師」的なカルダーノのイメージを突き崩し、新たなカルダーノ像を描く著作だ。本書のメイン・ディッシュとなるのが、先にあげたカルダーノの自叙伝である。著者の榎本は、これを丹念に読み込み、彼が影響を受けたであろう医師や、占星術師、思想家の流れのなかに自叙伝の記述をマッピングすることで、カルダーノが自叙伝で何を伝えようとしていたのか、をクリアに提示する。これによって不可解に思えてならなかったカルダーノの人物像が、少しずつわかってくるような気になった。それは自叙伝を分析したあとにやってくるカルダーノの『一について』という著作の分析ともつながって、ルネサンス思想史において特異にも思える彼の性格が、思想史のなかに馴染ませるのだ。

なお、榎本は先にあげたカルダーノの自叙伝とグラフトンの著作の翻訳も手がけており、また、早くから日本でカルダーノ研究に取りかかっていたパイオニアでもある。しかし、彼女はどこかの研究機関で研究職について研究に専念していたわけではない。補遺に載せられた彼女の40年以上に渡るカルダーノとの「旅」についての記述(関係者への深い感謝が伝わってくるような)は、読んでいて素直に感動できるものがあった。ひとつのマイルストーンとしてこの研究がこうした形で本にでたことは喜ばしく思う。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...