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ガブリエル・ガルシア=マルケス『大佐に手紙は来ない』『土曜日の次の日』





 カルペンティエルの『失われた足跡』*1と同時に収録されていたガルシア=マルケスの短編ふたつも読む。ここで読むことができる『大佐に手紙は来ない』も『土曜日の次の日』も、『百年の孤独』以前に書かれたものなのだが、マコンド村やアウレリアーノ・ブエンディーア大佐(小説のタイトルにある大佐は、ブエンディーア大佐ではない)といった『百年の孤独』に繋がる要素が織り込まれていて、ドキドキしながら読むことができた。いやあ……久しぶりにガルシア=マルケスを読んだけれど、素晴らしい……。『大佐に……』は内田吉彦の訳、『土曜日の……』は桑名一博の訳なのだが、鼓直や、木村栄一も含めて、このあたりのスペイン語文学者の先生方には長生きしていただきたいものである。





 鳥が家の窓を突き破って死に続ける、という不可思議な事件(ヒッチコックの『鳥』を想起させる)が起こる村で、百歳近い高齢の神父が鳥の死骸を眺めているうちに、あちら側の世界にいってしまう……というわけがわからないが、とにかく爆笑しっぱなしで一気に読める『土曜日の次の日』も大好きなのだが、『大佐に手紙は来ない』にはじわじわと涙腺を刺激されてしまって困った。かつて、アウレリアーノ・ブエンディーア大佐が指揮していた反乱軍へと身を投じ、正義のために戦っていた(いまでは老人の)「大佐」が、ひどく貧しい生活に苦しみながら、いつかやってくるはずの手紙(恩給)を待ち続ける、というこのストーリーには、忘却された者の刹那さのようなものを感じてしまう。






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