スキップしてメイン コンテンツに移動

プラトン『ゴルギアス――弁論術について』




ゴルギアス (岩波文庫)
プラトン
岩波書店
売り上げランキング: 19553



 プラトン強化月間の一環として読む。こうして集中的にプラトンを読んでいると、自然と仕事中などに、魂であるとか、徳であるとかについて思いを馳せるようになってしまう。そうして「ああ、私も徳の高い生活を送りたいものだ」、「私の魂も高貴なものにしたいなぁ」などと自然とつぶやいてしまいそうになるのだが、ふと我に返って考えると「こんな発言をしてしまえば、かなりスピリチュアルな人間だと思われるのがオチであろう」と思う。危険だ。しかしながら現実に、私はそのように考え始めているのであって、だからこそ、このブログを読んでいる方にお願いしたいのだが、それこそ本格的に私がスピリチュアルな世界へと旅立ちそうになっていたら、コメント欄など開放しておりますので「君ィ! 極真空手をはじめなさい!」などの適切なアドバイスをしていただけたら、と思うのである。本当に、よろしくお願いしますね。




 いきなり話が脱線しているのであるが、この『ゴルギアス』も面白く読む。副題に「弁論術について」とあるが、これはあまり適切なものとは思われない。というのは、この作品において語られることの大部分は、弁論術について、というよりも、いわゆる「哲人政治」についてに割かれるからである。ここでのソクラテスには、三人の論敵がいる。まず、本のタイトルにもあるゴルギアス(彼は当時大変に有名な弁論家であり、プロタゴラス*1と同様に、教師として活躍していた)がいる。そして、ゴルギアスと一緒にアテナイに滞在している、ポロスがゴルギアスを擁護しようと、ソクラテスに立ち向かう。そして最後に、ソクラテスの友人であったカルリクレスがソクラテスと激論を交わすようになる。「哲人政治」は最後のカルリクレスとの対話において主に語られるのであるが、この対話が一番ボリュームがある。





 最初のゴルギアスとの対話は、プロタゴラスのときと同様、ソクラテスが「一体、あなたはどのようなことを教えているのですか?」と相手に問いかけることから始まる。あなたの教えている弁論術とは、どのような効用を人に与えるものなのですか? と。これに対して、ゴルギアスは弁論術を「人を言葉によって、思い通りに動かすことができる、素晴らしい技術である」と答えるのだが、ソクラテスは「へぇ、あなたはそんなものを『素晴らしい技術』なんて呼ぶんですか……。へぇ……」という具合に反駁をおこなう。「ワスは、そんなものを『素晴らしい技術』なんては呼ばないね! そんなものは、迎合だと思うんだよなぁ! なぁ!」。





 ここで割って入ってくるのが、ポロスである。「なんだって! 人を思い通りに動かせたら、最高じゃん! それって最高に幸福なことじゃんか! じゃあ、一体キミはどういうことがらを『素晴らしい技術』と呼ぶのかね?」と。これに対してソクラテスは以下のように答える。「いやいや、ワスは、人を思い通りに動かせることなんか、ちっとも幸福だと思わないんだよねぇ……だって、そんな風にして、自分の欲望のままに動いたって、自分の魂のためにはならないじゃんか……」。





 そしてカルリクレスである。ソクラテスと前述の二人との対話を聞いていた彼ははじめに「ソクラテス、君ってヤツは、いい歳して哲学なんかにのめりこんじゃって……そんなものは、若者がやることだよ。大人になったら、まっとうな実学をやらないと。弁論術とか役に立つことをやっておかないと、バカにされちゃうよ?」と批判を始めるのだが、この批判もソクラテスには暖簾に腕押し。ソクラテスの方では「いやいや、実学なんかやるよりも、ワスはひとつの真理を得たほうがずっと幸せだし、魂も救われると思うんだよねぇ……」と意に介さない。そこでカルリクレスは、ポロスの言葉を引き継ぎながら「人を思い通りに動かすこと(自分の欲望)が、どれだけ素晴らしい技術であるのか」を一生懸命に説明する。このとき、ギリシャの政治家の名前が登場し、彼らの独裁的な政治と、ソクラテス(プラトン)が理想とする哲人政治との対比がおこなわれる。





 ソクラテスが語る、政治のあるべき姿とは以下のようなものであろう――まず、為政者は、自分のためでなく、市民がより良いものになるために政治をおこなうこと。それが為政者のためにも、良いことなのだ(逆に、自分のやりたいことをするために、政治をおこなうことは悪いことである)。なぜなら、自分のやりたことをするために、不正なことをするならば、それは自分の魂の穢れにつながってしまう。その穢れは幸福の妨げである。最終的な幸福を目指すのであれば、不正をおこなわず、市民のために政治をおこなうべきなのである。より良い魂の姿が、幸福に繋がる、という前提に基づき、ソクラテスは以上のようなことを言っている、と思う。これらを茂木健一郎風なフレーズでまとめると「魂に良いことだけをやりなさい」とでも言えるだろうか。





 そういうわけで「人を思い通りに動かす方法」である弁論術は、素晴らしい技術ではない、迎合である、という風にソクラテスは結論付けるのであるが、そのような迎合を批判し、身に付けていなかったばかりに、ソクラテスは裁判にかけられた際、被告の言うがまま死罪になったことがここでは暗示されている。なんとも皮肉な結果である。






コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

土井善晴 『おいしいもののまわり』

おいしいもののまわり posted with amazlet at 16.02.28 土井 善晴 グラフィック社 売り上げランキング: 8,222 Amazon.co.jpで詳細を見る NHKの料理番組でお馴染みの料理研究家、土井善晴による随筆を読む。調理方法や食材だけでなく食器や料理道具など、日本人の食全般について綴ったものなのだが、素晴らしい本だった。食を通じて、生活や社会への反省を促すような内容である。テレビでのあの物腰おだやかで、優しい土井先生の雰囲気とは違った、厳しいことも書かれている。土井先生が料理において感覚や感性を重要視していることが特に印象的だ。 例えば調理法にしても今や様々なレシピがインターネットや本を通じて簡単に手に入り、文字化・情報化・数値化・標準化されている。それらの情報に従えば、そこそこの料理ができあがる。それはとても便利な世の中ではあるけれど、その情報に従うだけでいれば(自分で見たり、聞いたり、感じたりしなくなってしまうから)感覚が鈍ってしまうことに注意しなさい、と土井先生は書いている。これは 尹雄大さんの著作『体の知性を取り戻す』 の内容と重なる部分があると思った。 本書における、日本の伝統が忘れらさられようとしているという危惧と、日本の伝統は素晴らしいという賛辞について、わたしは一概には賛成できない部分があるけれど(ここで取り上げられている「日本人の伝統」は、日本人が単一の民族によって成り立っている、という幻想に寄りかかっている)多くの人に読んでほしい一冊だ。 とにかく至言が満載なのだ。個人的なハイライトは「おひつご飯のおいしさ考」という章。ここでは、なぜ電子ジャーには保温機能がついているのか、を問うなかで日本人が持っている「炊き立て神話」を批判的に捉え 「そろそろご飯が温かければ良いという思い込みは、やめても良いのではないかと思っている」 という提案がされている。これを読んでわたしは電撃に打たれたかのような気分になった。たしかに冷めていても美味しいご飯はある。電子ジャーのなかで保温されているご飯の自明性に疑問を投げかけることは、食をめぐる哲学的な問いのように思える。

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」