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小室ファミリーを知らないものは不幸である



 先日、我が家にid:murashitid:ayakomiyamoto、そしてid:Delete_Allという同年代2人、オッサン1人を招きまして、ちょっとした食事会を開いたのですが、そのときご飯を食べながら爆音で聴いていたのがglobeとか安室ちゃんとかで。これが(お洒落ぶって)モダンジャズだのボッサだのを聴きながら食事するよりもずっと盛り上がってすごく楽しかったのでした。小室哲哉は偉大だ……と思った。小室ファミリー全盛期のころすでに洋楽を聴き始め、ボンジョヴィからプログレへ……という中二病全開の青少年期を過ごしていた私にもしっかりと小室サウンドが焼きついているのです。



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 特に『globe』は、日本の音楽業界の最盛期のイケイケ感を幻覚させてくれるようで最高です。このアッパーな多幸感といったら、どんな懐メロよりも強度がありそう。しかし重要なのは、この幻覚を誰かと共有できる、ということなのでしょう。もしかしたら、いろんな意味で脚光を浴びている「ゆとり世代」には、この感覚が共有できないかもしれない……そう思うとちょっとした優越感さえ湧いてきます。この幻覚を共有できることが、iPodでもなく、Youtubeでもなく、テレビのスピーカーから小室サウンドが聞こえてきた時代を知るものの特権なのです。





  • 自家製ピクルス

  • 白菜の浅漬け

  • 水菜と豆腐のサラダ

  • 切干大根の煮物

  • カシューナッツとピーマンと鶏肉の炒め

  • 鯛めし



 ちなみにその日の食事会は以上のメニューを振舞いました。大好評だったので次はSPEEDを聴きながら手料理を振る舞う会を開きたいと思います。





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