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ニッコロ・マキャヴェッリ 『フィレンツェ史』



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まさか、マキャヴェッリの名前を知らない人はおりますまい。『君主論』という現在ではサラリーマンの自己啓発本のネタにさえ使われる有名な本を書いた政治思想家の彼は、フィレンツェの官僚としても従事しており、この『フィレンツェ史』という上下で1000ページほどのマッシヴな歴史書は、フィレンツェを支配していたメディチ家出身の教皇クレメンス七世から依頼され書かれたものでした。冒頭は「ゲルマン人が攻めて来たぞ〜!」という山川の世界史教科書でいっても最初のほうのページから話が始まり、およそ1000年の時の流れを一気に振り返ります。マキャヴェッリの記述は現代の歴史考証的には誤ったものもありますが、そこには逐一括弧書きて訂正が入っているので親切。メインになるのは14世紀半ばからのフィレンツェで起こった政治抗争と対外戦争についてです。

本書が語るフィレンツェの歴史は、ざっくり言ってしまえば戦争に次ぐ戦争、内乱に次ぐ内乱、陰謀に次ぐ陰謀……という感じであって、ルネサンス期のイタリアの華々しいイメージとはかけ離れた記述が続きます。なにが文芸復興だ、と言わんばかりの血で血で洗う争いの連続。教皇派(グエルファ党)と皇帝派(ギッベリーナ党)との対立や、貴族・豪族・市民・職業組合といった階級闘争、メディチ家がフィレンツェの実権を握ってからもクーデターを企てるものが後を絶たず、民衆が普通に武装していた時代の恐ろしさを感じざるを得ません。今で言うと、気に食わないことがあったらノリで武装した有権者が千代田区にひしめき合ってしまうような感覚でしょうか。近代に入って、軍隊や警察権力が中央集権され、暴力装置として機能する、というカール・マルクスの描いた社会は、暴力が民衆から奪われたことによって去勢された、だけではなく、社会の安定をもたらしたのであーる、ということを実感させてくれます。昔の人は血の気が多すぎていけない。ペストの流行で9万6000人以上の人が死んでも対外戦争が継続されたそうですから驚きです。

文化史的な記述はごくわずか。ルネサンス期の新プラトン主義の中心人物であったマルシリオ・フィチーノや、ピーコ・デッラ・ミランドーラの名前はそれぞれ一度だけ出てくるのみ(前者はコジモ・デ・メディチ、後者はその孫のロレンツォの庇護を受けていました。彼らの業績については『ジョルダーノ・ブルーのとヘルメス主義の伝統』をご覧ください。第4章第5章などがとくに詳しい)ですが、新プラトン主義者たちが自然魔術だ、占星術だなどと言っている間、政治世界は血みどろで、ずっと戦争の世紀だったことがわかると世界史が厚みをもって見えてくるでしょう。

また、本書でキチンと整理されているわけではありませんが、外敵と戦争をやる時のやり方についての記述もとても面白かったです。内紛は都市の内部での勢力争いになりますが、当時の都市や共和国は外部との戦争になると、協力関係にある勢力から傭兵を雇ったりして補強をおこなって戦っていたようです。つまり、戦争時の兵力はアウトソーシングされていて、それを請け負うのが騎士という職業軍人だったわけですね。そこでの補強にはもちろん資金力が必要なわけですが(資金が無くなってくると、お互いもう止めようや、と和平が結ばれたりする)、資金力がモノを言うルールは、現代スポーツの世界にも通じて読めます。ローマ帝国の滅亡から15世紀末までの長いスパンで綴られているので、通史として読むにはなかなか厳しいところがありますが、とても面白かったです。

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史跡めぐりにまたフィレンツェにいきたくなったり。

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