スキップしてメイン コンテンツに移動

ジェロラモ・カルダーノ『わが人生の書 ルネサンス人間の数奇な生涯 』




わが人生の書―ルネサンス人間の数奇な生涯 (現代教養文庫)
G. カルダーノ
社会思想社
売り上げランキング: 785638


 16世紀ルネサンスの医者であり、数学者であり、占星術師であり、哲学者であり……という万能人的人物、ジェロラモ・カルダーノについて当ブログでは、過去に『カルダーノのコスモス』という研究書を紹介していますが*1、この『わが人生の書』はカルダーノが晩年に自らの人生をつづった自叙伝です。とても面白かった! 副題に「ルネサンス人間の数奇な生涯」とあるとおり、この人は相当に波乱万丈な人生を送っていた模様で、息子が死刑にされたり、博打に金を注ぎこんだり、10年ぐらいインポテンツに悩んでいたり、と大変ご苦労なさったみたい。こうした苦労の運命を、占星術師である彼は自分のホロスコープ(生まれた時の星と惑星の位置を記した図)から分析していて「もうちょっと太陽の位置が違っていたら、もう少し立派な人間になれたのになあ」的なことを書いている。運命は事後的に確認されるのみである、というところがなかなか悲しげで良いですね。自分の運命を分析できる、というのもなかなか難儀なものなのです。運命を知り、その運命を嘆かなくてはならないのであれば、知らないほうが良かったんじゃないか、などとも思います。





 この運命は、自叙伝の冒頭に提示される。個人的にこれは重要に思われます。やっぱり暗い星の下に生まれてしまった、という運命をカルダーノは読んでいるから、その後自分の人生を振り返るさえにも、自分はあんまり幸福な人生を送れなかった、とか、名誉とは無縁の人生だった……とか暗い方向に評価していくわけです。良いこともホントはあったに違いないのに、自分自身が読んだ運命によって自分自身の人生の評価のトーンが決まってしまっているように思われたのですね。このあたりがとても面白いと思いました。ただ、カルダーノがすごいのは、幸福じゃない、成功できなかった、名誉とは無縁だった、とあたかも「なんだかものすごい謙虚な態度をとっている人」風に振舞う一方で、自分の著作一覧の詳細や、自分が直した患者の一覧、自分が同時代の著名人の本で言及された一覧などを制作していたりするところです。思わず「自分大好き人間じゃないか!」と突っ込みたくもなるのですが、ものすごく詳細に練り上げられたリストは、フランソワ・ラブレーが『ガルガンチュアとパンタグリュエル』でよく使っている面白リストの技法と重なって読めてくる。自己否定と自己愛がすごいバランスで同居しているところに、この本の奇書らしい魅力があるように思えます。この詳細さは『カルダーノのコスモス』の著者、グラフトン先生も驚いているのだとか。





 単純に読み物としても面白いもので自分の両親や一族のところから遡って紹介しはじめるところには、ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』を想起させるものがある。時系列的にはスターン(18世紀)のほうがずっと後なんですが『トリストラム・シャンディ』の語り口が、ルネサンス期の自叙伝の形式をパロディ化したものだったのかな、と思いました。訳者の一人である榎本恵美子が書いた解説によれば、15・16世紀のイタリアではこうした自叙伝(自分を物語る行為)が活発になったそうです。近代文学においては私小説というのがひとつの有力な形式になりますが、カルダーノの自叙伝もそうした文学史に接続できるものなのかもしれません。





 カルダーノは自分の夢に予知能力がある、という風にこの本で主張しているんですが、ここも面白かったですね。彼が見た予知夢は、夢のなかで将来起こることがそのまま表現されているわけではなく、なんとも奇妙な・不可解な夢なんですよ。それを何らかの事件があったあとで「あ! あの不吉な夢はこの事件を予知していたのか!!」と解釈が発生する。それ全然予知してないよ! という感じなのですが、カルダーノの論法によれば「なんとなく不吉な夢をみたもんで、気をつけていたから大事にいたらずに済んだのだよ」という風に前向きにとらえられる。カルダーノはそうした予知夢を、神的なものの人智を超えた意思が寝ているあいだに頭のなかに入ってきた結果だ……みたいに考えているように思えます(流入説?)。神の意思が超越的なものである、ということは言うまでもないでしょうが、夢がそうした超越的なものとの架け橋になっている、と考えるところにフロイト的なものを見出さなくもないです。



カルダーノ自伝―ルネサンス万能人の生涯 (平凡社ライブラリー)
ジェローラモ カルダーノ
平凡社
売り上げランキング: 493649



 翻訳は訳者違いで私が読んだ現代教養文庫版のほかに、平凡社ライブラリーにも収録されている模様。しかし、どちらも絶賛絶版中!! 岩波文庫あたりに収録されれば良いですねえ。とはいえ現代教養文庫版は中古でも割合お手ごろな値段で購入可(今現在)。






コメント

  1. 謎のディオゲネス氏にも書評して欲しいですね!

    返信削除

  2. ホントですね。アマゾンのレビューなんかその本に元から興味のある人しか読まないのだから、あの方にはもっと自分のURLなどを持って活動していただきたいです。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

土井善晴 『おいしいもののまわり』

おいしいもののまわり posted with amazlet at 16.02.28 土井 善晴 グラフィック社 売り上げランキング: 8,222 Amazon.co.jpで詳細を見る NHKの料理番組でお馴染みの料理研究家、土井善晴による随筆を読む。調理方法や食材だけでなく食器や料理道具など、日本人の食全般について綴ったものなのだが、素晴らしい本だった。食を通じて、生活や社会への反省を促すような内容である。テレビでのあの物腰おだやかで、優しい土井先生の雰囲気とは違った、厳しいことも書かれている。土井先生が料理において感覚や感性を重要視していることが特に印象的だ。 例えば調理法にしても今や様々なレシピがインターネットや本を通じて簡単に手に入り、文字化・情報化・数値化・標準化されている。それらの情報に従えば、そこそこの料理ができあがる。それはとても便利な世の中ではあるけれど、その情報に従うだけでいれば(自分で見たり、聞いたり、感じたりしなくなってしまうから)感覚が鈍ってしまうことに注意しなさい、と土井先生は書いている。これは 尹雄大さんの著作『体の知性を取り戻す』 の内容と重なる部分があると思った。 本書における、日本の伝統が忘れらさられようとしているという危惧と、日本の伝統は素晴らしいという賛辞について、わたしは一概には賛成できない部分があるけれど(ここで取り上げられている「日本人の伝統」は、日本人が単一の民族によって成り立っている、という幻想に寄りかかっている)多くの人に読んでほしい一冊だ。 とにかく至言が満載なのだ。個人的なハイライトは「おひつご飯のおいしさ考」という章。ここでは、なぜ電子ジャーには保温機能がついているのか、を問うなかで日本人が持っている「炊き立て神話」を批判的に捉え 「そろそろご飯が温かければ良いという思い込みは、やめても良いのではないかと思っている」 という提案がされている。これを読んでわたしは電撃に打たれたかのような気分になった。たしかに冷めていても美味しいご飯はある。電子ジャーのなかで保温されているご飯の自明性に疑問を投げかけることは、食をめぐる哲学的な問いのように思える。

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」