思惟、意志、知的直観、悟性……などなど、西洋哲学の伝統において人間の認識に関わる諸々の動きや感覚はその機能らしきものごとに様々な名前が与えられてきたようだけれど、西田にとっては、すべてが「意識」とか「精神」という言葉に統合されている(ように読める)。思惟、意志、知的直観、悟性……などなどは意識が、そのモードによって状態変化しながら機能していく……ような感じ。機能ごとにハッキリとしたレイヤーはなく、局所かしているわけでもなく。このブヨッとした意識のイメージが、アリストテレス的な階層構造とは全然違う。
西田はこの意識を世界の中心と置く。彼が考える意識の外にある「自然」とは、ラカンにおける現実界のようなもので(たぶん)、絶対に直接は触れることのできない存在だ。我々はその実在を主観的に(意識のスクリーンを通して)しか認識しえない。有名な「我々が物を知るということは、自己と物とが一致するというにすぎない。花を見た時は即ち自己が花となっているのである」という一説も、そういう話だったの、と読んでみて納得がいく。これを読んでからは、絶妙な焼き加減の赤身のステーキを食べれば「私は赤身のステーキだ」と思うようになったし、悩ましげなバディを見かければ「私は悩ましげなバディだ」と思うようになった(嘘だけれど)。
まあ、こういう記述で「そうだったのか!!」と発見があるわけではない(悩ましげなバディだったのか! とか)。でも、なるほど、自分が見えてる世界をこういう風に理解することも可能であるな、というのが楽しい。こういう思索に耽ることのできた西田は、よっぽど暇であったのだろうな〜、とも思う。正直、後半の(標題にもなっている)「善」についての考察はよくわからなかったが、そんなに難しくもないし。かつて学生時代に『西田幾多郎の生命哲学』を読んだ記憶がうっすらあるが、ベルクソンやドゥルーズといった西洋の思想家と共鳴させなくとも、西田哲学は楽しいではないか、と思った。
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