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ハインリッヒ・シッパーゲス 『中世の医学: 治療と養生の文化史』

中世の医学―治療と養生の文化史
ハインリッヒ シッパーゲス
人文書院
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ドイツの医学史家、ハインリッヒ・シッパーゲス(1918 - 2003)の『中世の医学』を読む。「中世」という歴史区分は1000年ぐらいの非常に広い範囲に渡っているため、その通史を想像していると裏切られてしまうと思う。著者の専門はヒルデガルト・フォン・ビンゲンとアラビア医学だったそうで、本書も基本的にはヒルデガルト・フォン・ビンゲンというポイントを持ちながら、中世盛期・後期の医学的なテーマについてエッセイ的に書かれたものとなっている。作りとしてはホイジンガの『中世の秋』に近いが、各テーマがもっと具体的に絞ってあるので読みやすい本だった。下のような楽しげな図版も多い。

16世紀の木版画家、Hans Wechtlinによる開頭術の図。
近代以前の医学は、これまでアヴィセンナの入門書だとか、パラケルススについての研究書だとかを紹介してきた(もちろん、フィチーノもこのトピックには関係している)。彼らが示した占星医学・魔術的医学のバックボーンには、人体というミクロコスモスと、天体というマクロコスモスの万物照応の思想があった。これに対して、シッパーゲスは本書のなかで「中世の文献には魔術的、巫術的、悪魔的なものごとの記述が如何に少ないかと言うことは注目すべきである」と書いている。

この一言がわたしにとってはとてもためになった。「中世の医学」と聞くと、巨大な鍋でグツグツとなにかを煮込んで薬を作っている、的なイメージを抱きがちである。けれども、そのイメージはむしろ、中世の終わり頃にアラビアから流入した学問の反映である、という整理がうまい具合にできたというか。人体と宇宙の調和の思想が先にあり、その調和(不調和)の印を見極める術として、占星術であったり魔術があった、ということなのか。そもそも「医学」がどのようにひとつの学問として成立していったのか、も含めて非常に勉強になった。

読んでいてとにかく楽しいのは第4章「疾病のパノラマ」だろう。ここでは癩病、黒死病といった病気の患者がどのように(治療的な、あるいは社会的な)処置をされたのかが詳述されている。このなかでも14世紀から度々ヨーロッパで確認された「舞踏狂」という(おそらく)文化依存症候群の記述に惹き付けられてしまった。これは集団ヒステリーのようなものらしく、何百人の人々がほぼ憑依状態になって服を脱いだり、踊り跳ねはじまったそうである。目撃者は大変驚いたと思うが、これに対してなにか治療をおこなった、という記録もほとんどないという。16世紀末にはこの流行が収まっているのだが、中世末期にはじまって、近世の始まりとともに去っていくようで興味深い。14世紀にはペストの大流行もあったし、終末的な時代の空気感がこの病気には現れているように思う。

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