そこでは大風呂敷を広げる政治家として語られてきた東京市長、後藤新平の再評価がおこなわれ、実際に行政や都市計画に関わっていた人々の生の声も収録されている。また、学生時代に住んでいた場所の近くにあった、ときわ台がアーバンデザインの計画型住宅地として高く評価されていることや、戦後から未だに完成していない道路計画の存在など身近な驚きもあった。20年以上前に出た本なので、ちょっと情報が古くなっている部分もあるけれど、今だからこそ読む価値がでてきている本でもある。日本の都市開発は、復興やイベントがなければ正当化されてこなかった、という。そして、今、我々の社会は地震からの復興と東京オリンピックというイベントという正当化の理由に直面しているのだ。
著者が下した東京の都市開発への評価は当然ながら低い。チャンスがありながら社会の無理解によって失敗した東京の都市計画が、ジョルジュ・オスマンによるパリ改造のように成功していたらどれだけ素晴らしい街になっていただろうか、という嘆きが本書には通底している。さらに隅田公園や明治神宮内外苑連絡道路といった現実化した素晴らしい遺産もまたその後の開発によって食い潰され、木賃ベルト地帯のような危険で治安悪化が懸念される負の遺産が残り続けているのが問題だ、と著者は言う。
では、どんな都市を著者は理想としているのか。ひとつ著者が外苑のオープンスペース実現に夢見た理想像を紹介しよう。「外苑のオープンスペースとは、芝生の上で恋人同士が指をからませて語らい、腰を下ろした若妻のスカートの回りを幼児がキャッキャッとはしゃいで回り、また二四時間戦う企業戦士が静かに一時の瞑想にふける——そのような静寂な都市空間として存在しなければならない」と著者は言う。要するに、クリーンで健康的で美しい都市を著者は求めているのである。
石原慎太郎都知事時代に文化施設などが解体されたことなどから、著者は石原時代の東京の開発には批判的だったようだが、著者の好みは都市の浄化を求めた石原慎太郎と大して変わらないようにも思われる(調べてみたら「美しい日本の○○100選」的な委員会の評議員も勤めていらっしゃり、案の定、やっぱり……という感じ)。史的な記述はめっぽう面白いのだが、こうした美的センスのペラさは若干残念。理想都市を求める一方で、汚いモノを排除しようとする暴力性に著者は無自覚なのでは、とも思ってしまう。クリーンで健康的で美しい暴力といえば、ファシズムでしょうよ、と。
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