簡単に振り返るならば、アリストテレス主義の世界観においては、モノに力を伝える、モノを動かすには、モノとモノとの接触が必要とされる、だからこそ、磁石のように接触していないのに鉄を引き寄せるものは、非常に不思議なものと受け取られていた。なぜ、接触していないのに力が働くのか。この謎を昔の人は、いろんな方法で説明しようとした。たとえば、磁石には細かい穴が空いていて、その穴が鉄を吸い寄せるような流れを生んでいる。だから、鉄を引きつけるのだ、みたいに。
こうした理解は、ルネサンス期に自然魔術が隆盛することで風向きが変わる。自然魔術においては、そうした不思議な磁石の力を、自然の「隠れた力」というマジック・ワードによって包括して理解してしまう。磁石の遠隔的に力を発生させる様子も隠れた力のおかげ。これによりモノは接触によってしか動かないというアリストテレス主義的な世界観の乗り越えがおこなわれる。
もちろん、これは説明の放棄とも言える。磁石が鉄を引きつけるのは、なんだかよくわからない「隠れた力」の作用である、というのは説明しているようで、なんの説明にもなっていない。しかし、説明を放棄することによって、一旦その力の働きを認め、今度は伝聞によって伝えられてきた磁石の性質の検証をおこなうなどの経験論的な動きが生まれてくる。魔術に経験的科学の萌芽が見られるのだ。
一方で、そうした魔術的な思考停止を払拭しようという流れも生まれてくる。デカルトは、スコラ哲学や魔術を塗り替えようと、新たな説明原理を導入し、磁力や天体の動きを説明しようとした。いわゆる機械論の誕生で、それはより現代科学的な視点との近さを感じるものだろう。しかしながら、磁力や重力の発見につながったのは機械論ではなく「力の本質や力の原因をめぐる問いを棚上げにし、実験と観察 −とりわけ精密な測定− によって力の数学的な法則を確定することにおいて」だった。魔術を認める思考によって、現代科学につながる発見がおこなわれたのだ。
こうした本書の大きなストーリーは、プリンチペによる『科学革命』とほとんど同じものと言っていい。プリンチペの本のコンパクトさと伝える情報量の効率性を考えると、1000ページの大ヴォリュームを読む苦労を割く必要があるか……?(人にオススメしやすいか?)と問われると、若干二の足を踏んでしまうところ。また、直線的な科学の発展史を読み直すという試みがあるとはいえ、著者が扱う対象の評価軸があくまで「現代の発展につながるものとしての重要性」にあるため「歴史を読み替える」ような驚きに欠けている。
とはいえ科学史家のコミュニティとほとんど接触せずに、在野の予備校講師がこんな本を書いてしまったのは、驚愕、そして尊敬、という言葉しかない。本書執筆のためにラテン語を習ったりしているその勉強ぶりは、見習いたい部分がたくさんあるが、そういう独学スタイルのもったいなさがすげーあるんじゃないか、とも思うんだけれど。
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