スキップしてメイン コンテンツに移動

ハンナ・アーレント『人間の条件』




人間の条件
人間の条件
posted with amazlet on 07.04.29
ハンナ アレント Hannah Arendt 志水 速雄
筑摩書房 (1994/10)
売り上げランキング: 30910


 『革命について』*1に続き、ハンナ・アーレントの著作を読み終える(2冊目)。これでテオドール・アドルノとアーレントという二人の思想家を参照しながら、《暴力》について考えることは今尚有効なものだ、という思いをますます強くした。その理由をごく簡単に言ってしまうと、彼らが第二次世界大戦中、ナチズムによって暴力を浴び、幸運にも生き延びた後に、暴力について当事者的に考えようとした人たちだから、というもので終わってしまう。読んでいて涙が出てくるほどの衝撃をくらうぐらい、彼らの著作には受難から生まれてきた切実さを感じる。たとえ、アドルノとアーレントの関係が劣悪だったにせよ、二人の著作物の根底には似たような危機感と深刻さがある。

 もちろん、純粋な同化ユダヤ人(変な言い方だけれども)の家庭生まれ、常々ユダヤ人であることを意識しながら生活してきたアーレントと、イタリア系の母を持ち戦争が始まるまでは特に自分がユダヤ人であることを意識していなかったアドルノの境遇を同一化することはできない*2。しかし、前者が「同化していたはずなのに」、後者は「ユダヤ人だと思ってなかったのに」迫害を受けた、と考えるならやはり近いものがある。両者は共に、暗がりで後ろから刺されるようにして暴力を蒙っていたのではないか。


 方法論と参照点、そして態度の違い(印象に過ぎないが、アドルノはアーレントよりもずっと愚直であると思う)があれども、上に述べたような理由で私はこの二人の著作を基本的に接続させながら読んでいる。例えば、アドルノのいう「理性による《自然支配》」と、アーレントのいう「近代の《世界疎外》」は似たようなことを言ってたんじゃないかなぁ、とか思う。


この世界疎外という概念こそ、彼女の危機意識の鍵概念であろう。この疎外は近代以降、二つの方向で進行した。第一はデカルト以来、近代哲学は客観的な世界へのリアリティへの懐疑から自分の内部の意識に目を向けるようになり、そこに実在の固い基盤を見いだそうとした。この内省的方法がなにをもたらしたかは別として、それ以来近代人は世界の固いリアリティを失った。第二は近代科学の発展によって、人間は自身が地球拘束的な存在であるにもかかわらず、地球に拘束されない真に宇宙的な立場を確立した。(中略)今日の科学が与えている世界像は世界のリアリティではなく、なにか人間の精神がつくりだしたパターンのようなものにすぎないということである*3



 ここで引用した“第二の方向”に関しては、そのまま道具的理性が自然を支配していく過程と同様に読める(ただ、アドルノはそれをリアリティの消失ではなく、全体主義のステップである《同一化》を生む、と言うのだが)。また、“第一の方向”も内なる自然の理性による支配(内省)そして、支配された内省的な世界がどんどん拡大されていく過程――つまり、自然的な世界が理性よって支配された内省によって覆われていく状態と似ているようにも思う。正直に言うと、アーレントを読むまでアドルノの自然支配がどんなものなのかよくわからないでいたのだが世界疎外と接続されて始めて、クリアなものになってきた気がする(本当にどうでも良いけれど、自然支配と世界疎外って韻を踏んでいる)。アドルノを(何かのテーマと関連して、ではなくアドルノ自体を考えるために)読むとき一緒に読むべきなのはベンヤミンではなく、アーレントなのかもしれない……なんて思ったりもした。


 以上、ここまでアドルノおよび私がアドルノを読んでいる過程などについて興味がない(つまり大部分の)方にはまことにどうでもいい感想を書き連ねてきたけれども、とにかく面白い本である。出版されたのは1958年なのだが、既にアーレントがグローバリズムに対して警鐘をならしているようなところがあり、その慧眼に感服せざるを得ないし、ギリシャにおける《労働》と《仕事》の捉えられ方なども歴史的な知識として興味深かった。生まれ変わるならギリシャ人市民を熱望します。服もほぼ裸で、布をまきつけるだけで簡易だし、毎朝「今日は何を着ていこうか……」とクローゼットの前で悩まなくても良いだろうし……。




*1:こちらの感想はhttp://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20070301/p2


*2id:sumita-mさんによれば、Adornoという名前も母親の姓だそうである


*3:『人間の条件』訳者解説より





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...