東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』

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ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2
東 浩紀
講談社 (2007/03/16)
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 『動物化するポストモダン』からその続編として書かれた『ゲーム的リアリズムの誕生』において、筆者の着眼点はオタクから見る社会的分析から、オタク的なもの(ライトノベル、美少女ゲームなど)そのものを批評することにシフトしている。そこで語られる対象をおそらく筆者は肯定的に迎え入れているのだが、個人的に本の中で肯定されている全ての部分がしっくりとこなかったし、「一生ラノベなんて読まないだろう!」という確信が強まるばかりの読後感である。議論そのものは北田暁大のコミュニケーション論と重なり合うものもあり興味深いのだが……。あと『涼宮ハルヒ』のシリーズが400万部も売れてる、っていう事実は単純に驚きである(ノーベル賞作家だってそんなに売れてないでしょう)。


 ここからは本書を読んで得た「だから私はラノベを読まない」という確信について書こうと思う。私が「読まない」という選択をする理由の一つは、筆者が言うラノベにおいて「データベース的なものへと参照することで、物語(作品)が生み出されている」という事態である――前作でもこのデータベース化については触れられているが、本作では近代的な自然主義的リアリズムと対比させられることで、そのポストモダン性(というか、大きな物語の失効具合)が明らかなものとなっている。現代の“現実”は、万人が共有できるような“物語”は存在しない。ゆえに、自然主義的に現実を描こうとするのは億劫だ。しかし、オタクたちはデータベース(オタク的な知識・常識)という“仮想現実”にアクセスすることで容易に共有できる“物語”を生み出すことに成功している――筆者の言葉を暴力的に要約してしまえばこのようなものになるだろう。


 なんとなくでしかそれを理解することができないのだが、「童顔・メガネ・貧乳」という要素が人物に与えられることで「ドジっこ」という属性が付加されて、読み手には伝わる、という感じなのだろうか。筆者も指摘しているように、そこには読み手と書き手の共犯関係がある。データベースにあるデータは両者に共有されている、だからスムーズに話が進むのだ。しかし、考えてみればこれほど排他的な関係性はないのではないか、とも思う――データを共有できないものにとってみれば、「童顔・メガネ・貧乳」は全くの無意味なものへと転落してしまうだろう。私が最も引っかかる部分はその排他性である。そして、「ラノベを読まない」という選択は、正しく言えば「ラノベは読めない!」という実感だ。


 もっと言ってしまえば、オタクたちのコミュニケーションは本当にコミュニケーションと呼べるのだろうか、とさえ思う。そのようなコミュニケーションの形態において、データベースを参照できないものは「外国人(言葉が通じない)」として扱われる。このままオタクがデータベースに寄りかかっていたのではいつまで経っても、外国人に話しかけることはできない。つまりそれはオタクたちが延々に閉じた集団にしかなり得ないことを示している。データベースを参照しながら取り交わされるオタクたちのコミュニケーションは、そのような閉じた集団における“馴れ合い”に過ぎないのではないか、とも思う(『嫌オタク流』での中原昌也の苛立ちはこのようなものではなかっただろうか)。


 また、そのようなヌルい状況では、コミュニケーションをとるための想像力まで去勢されてしまうだろう。想像力が去勢されてしまえば、コミュニケーションをとるためにより一層データベースに寄りかかるしかなくなる。データベースに寄りかかればまた、想像力は力を持たなくなる――このような悪循環もオタクの閉じにはあるように思われる。オタクが閉じて行って、どんどん特殊な場所へと移行していけば嫌オタク流的には好都合なのだろうけれど。





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