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追悼!ロストロポーヴィチ




ベートーヴェン:トリプル・コンチェルト & ブラームス:ダブル・コンチェルト
オイストラフ(ダヴィッド),ロストロポーヴィッチ(ムスティスラフ) リヒテル(スヴャトスラフ) リヒテル(スヴィヤトスラフ) オイストラフ(ダヴィッド) ロストロポーヴィッチ(ムスティスラフ) ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 カラヤン(ヘルベルト・フォン) ベートーヴェン クリーヴランド管弦楽団 セル(ジョージ) ブラームス
東芝EMI (2004/12/08)
売り上げランキング: 433



 1927年に旧ソ連(現・アゼルバイジャン)で生まれた音楽家、ムスティラフ・ロストロポーヴィチが亡くなりました。20世紀前半を代表するチェロ奏者をパブロ・カザルスとするならば、ロストロポーヴィチの活躍(彼のために書かれたチェロ作品の数は、おそらく今後も破られることのない記録として残るでしょう)を考えれば、間違いなく彼を「20世紀後半を代表する最高のチェロ奏者」ということができるでしょう。その彼の死は“20世紀の音楽史”が閉じていっていることを強く実感させます。演奏の素晴らしさ、だけでなく、ソ連という極めて特殊な(現代の日本から見れば、ですが)文化的・社会的状況のなかで生き、ソルジェニーツィンを擁護したことによりほぼ国外追放という危険な状況に晒された彼の人生そのものが「20世紀」を感じさせたのです。


 上にあげた録音はヘルベルト・フォン・カラヤン/ベルリン・フィルの伴奏で、ロストロポーヴィチがソ連最高の音楽家として活躍していたダヴィド・オイストラフ、そしてスヴャトスラフ・リヒテルと共にベートーヴェンの《三重協奏曲》を演奏したもの。カラヤン/ベルリン・フィルという西側的な“世界最高”と、ロストロポーヴィチらの東側的な“世界最高”が融和した歴史的事件のような名盤です。ここに名前を挙げた人たちは既に全員鬼籍に入っておりますが、今頃、天国での邂逅を果たしているのではないかな……などというと少し感傷的過ぎるかもしれません。



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 多すぎるほどに名盤を残してきた彼ですが、特に1960~70年代の全盛期に録音されたものはどれも素晴らしく、どれをとっても「この曲のベスト演奏」と言えるものでした。その充実ぶりを表す映像のいくつかをYoutubeで観ることができます。上に挙げたものはブラームスの《二重協奏曲》の演奏(この曲の演奏はカラヤンと競演したアルバムのカップリングも収録されています)。彼の魅力と言えば、まずはストラディヴァリから奏でられる芳醇な音色ですが、その豊かさが録音の貧しさを超えて伝わってくるところが素晴らしい。左手の運指の上手さもありますが、左手が衰えはじめ指揮活動がメインになってからも彼の特別な音色は失われませんでした。



Shostakovich, Kabalevsky and Khachaturian
Mstislav Rostropovich Dmitry Kabalevsky Karen Khachaturian Dmitry Shostakovich Evgeny Svetlanov Gennady Rozhdestvensky Moscow Philharmonic Orchestra USSR Symphony Orchestra Dmitry Kabalevsky Dmitry Shostakovich
EMI (2000/11/14)
売り上げランキング: 40032



 全盛期のロストロポーヴィチのすごさを伝えるものとしては、ショスタコーヴィチの協奏曲も外すことはできません。ロストロポーヴィチに献呈された作品であり、ソ連を代表する作曲家であったショスタコーヴィチのチェロ協奏曲は初演以降ロストロポーヴィチの重要なレパートリーのひとつとなっており、録音も何種類か存在するのですが、やはり初演に近い頃の録音などに特別なものを感じます。その後に小澤征爾と共演したものでは、さすがに技巧の衰えがあるせいか落ち着いたものになっているのですが、ここに挙げた録音はそれとは対照的に狂気を感じさせるような鬼気迫るカデンツァで聴くものを圧倒してきます。



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 リヒテルとともに臨んだベートーヴェンのチェロ・ソナタ全集も彼の魅力を伝えるものの一つです。常識的な人物であったロストロポーヴィチと、いろんな意味で天才過ぎたリヒテル*1の仲は必ずしも「好ましい友好関係にあった」とは言えなかったようですが、二人の個性がぶつかり合って異様な緊張感と素晴らしい音楽を生み出しています。楽譜を超越して、音楽が響きだしている一つの事例とでも言いましょうか、ロストロポーヴィチ、リヒテル、オイストラフという音楽家はそのような奇跡を起こすことができる限られた音楽家たちでした。クラシックを語るとき、よく「ベートーヴェンの精神性が……」という曖昧な言葉が登場しますが、彼らの演奏からはそのような「精神の“再現”」ではなく、「新しい音楽の“創造”」を感じることができるような気がします。


 クラシックに親しみがない人にとって、先月ロシアでロストロポーヴィチの80歳記念式典が行われたことは「ずいぶん大掛かりに祝うものだな」と感じられるかもしれません。しかし、私はそれだけ彼は特別な音楽家だったように思われます。むしろ、そのように祝ってもらえるのが当然である、と。正直に言えば、彼の指揮は驚くほど凡庸なものでしたが、彼のチェロ演奏の幅を広げてきたことや新しい音楽を作り上げてきたことは、それぐらい歴史的に価値があるものでした。現代の演奏家が「作曲家の精神を……」という言葉を出し印象に残らない演奏をするたびに、ロストロポーヴィチのような演奏家が出てくることを強く望みたくなるのです。大げさかもしれませんが、消えゆく再現芸術としてのクラシックを延命させるには、かつてのソ連の演奏家的に音楽と向き合っていくことが一番の近道なのかもしれません(ロストロポーヴィチ、あなたは本当に偉大だった!)。






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